常在細菌の多様性喪失が 現代の疫病を生む
小さなイボを切除する処置を受けた際、「感染症を防ぐよう、念のため」と、医師から抗生物質を処方された。
抗生物質を飲むと必ず、お腹の調子がおかしくなる。
できるだけ避けたいが、傷に病原体が侵入して厄介な事態になるのはもっと困る。背に腹は替えられぬ、というわけで、抗生物質を飲んだ。
もちろん、途中でやめては耐性菌を養うことになるので、指示された量と期間を守った。
服用をやめてもしばらくは腹痛、下痢などの不快な症状が続いたが、一過性だから我慢、我慢、とあきらめていた。
ところが、である。本書によると、抗生物質による腸内細菌の撹乱は一過性ではない。何年も、場合によっては一生失ってしまう常在菌もあるという。
抗生物質の乱用が耐性菌を生み出し、いたちごっこのように強毒化が進んでいる、という警告は、かなり前からあった。
したがって、社会全体として抗生物質の乱用を控えるべき、という認識は広まったと思う。
しかし、個々人の問題となると、「念のため」「一応」という意識は、患者も医師も変わっていない。
抗生物質が仮に治療に役立たなくとも、患者に「害」はおよぼさない、という前提にもとづいているからなのだが、それが大きな間違いだとしたら・・・・・・。
本書は、抗生物質の導入以来、半世紀にわたり、「我々の内なる細菌」ともいうべきヒトの常在菌が撹乱され、その多様性が失われたことで、「現代の疫病」が生み出されている、と指摘する。
肥満、若年性(Ⅰ型)糖尿病、喘息、花粉症、食物アレルギー、胃食道逆流症、がん、セリアック病、クローン病や潰瘍性大腸炎、自閉症、湿疹などである。
これらの世界的な急増や蔓延にはさまざまな要因が挙げられているが、アメリカの微生物学者で、ヒト・マイクロバイオーム研究の第一人者である著者、マーティン・J・ブレイザーは、動物実験や大規模疫学調査などを積み上げて、実証的に抗生物質と「内なる細菌」との関係をあぶりだしていく。
「マイクロバイオーム」とは、訳者あとがきによると、ヒト体内の常在細菌とそれが発現する遺伝子群、および常在細菌とヒトの相互作用を含む広い概念を指す。
本書には、「マイクロバイオータ」という語も出てくる。細菌を含む微生物集団を「微生物相」(マイクロバイオータ)と呼ぶのだそうだ。
以前は、全生物をまとめた概念である「生物相」は「動物相」と「植物相」に二分され、細菌は植物相に含まれるという分類概念にもとづいて、細菌には「叢=フローラ」が用いられてきた。
しかし、現在は「微生物相」に格上げされたので、細菌に「叢=フローラ」が用いられることはなくなったそうである。
日本では、私も含め、叢あるいはフローラという語をいまだに使っており、マイクロバイオータという語はあまり普及していない。こんなところにも、微生物をめぐる近年の急速な研究の進展がうかがえる。
とりわけ、”消えていく細菌やウイルス”が研究者のあいだで注目を集めている。
これまでの感染症理解では、微生物の存在が病気の原因であると考えてきたのだが、今や、ある種の微生物が体内に”存在しない”ことが、人間の健康に負の影響を与えている可能性が指摘されているのである。
そもそもヒトの体は、約30兆個の細胞からなるが、目を凝らすと、ヒトとともに進化してきた約100兆個もの細菌や真菌の住処でもある。
いいかえれば、私たちの体を構成する細胞の70~80%は、ヒト以外の細胞なのである。
ハウスシェアをしているすべての細菌を合わせると、重さは数キログラム。
脳に匹敵し、どの臓器よりも重い。種類は約1万におよび、遺伝子総数でいえば200~800万個。ヒト遺伝子の百~数百倍にもなる。
地球という惑星に目を向けると、細菌は、現在地球上に暮らす約70億人の人間の総重量の約千倍に匹敵する。
そのなかの選ばれた一部がヒトに常在し、協調しながら「私」をかたちづくっているのである。
<ヒトとともに古代からある細菌には、そこにあるための理由があり、ヒトの進化にもかかわってきた。
それらを変えることは何であれ、潜在的対価をもたらすことになる。
私たちは今、それらを大幅に変えている。払うべき対価がそこにはある。>
ブレイザーが「内なる細菌」の喪失を憂え、警鐘を鳴らすのもうなずける。
本書では、ブレイザー自身の腸チフス感染や娘の食物アレルギーをはじめ、個別の症例を挙げつつ、私たち一人ひとりの体内で静かに進行している多様性の喪失が、実は地球規模の問題であることを説く。
失われていく細菌の象徴としてとりあげているのが、ヘリコバクター・ピロリである。
ピロリ菌は、ヒトに病気を引き起こす。
しかし同時に、健康にもする。
一見、矛盾するようだが、こうした「両義的状態」あるいは「両義的性格」は、自然界ではよく見られる現象である、とブレイザーはいう。
すなわち、二つの生命体が状況に応じて共生的にも寄生的にもなる関係を築く「アンフィバイオーシス」で、「職場での人間関係や結婚にもあてはまるかもしれない」。
<私たちは、病原菌として発見されたピロリ菌が両刃の剣であるということを発見した。
年をとれば、ピロリ菌は胃がんや胃潰瘍のリスクを上昇させる。
一方で、それは胃食道逆流症を抑制し、結果として食道がんの発症を予防する。
ピロリ菌保有率が低下すれば、胃がんの割合は低下するだろう。
一方、食道腺がんの割合は上昇する。
古典的な意味でのアンフィバイオーシスである。>
「常在菌が繁栄するにしたがい、ヒトはそれら細菌とともに、代謝、免疫、認識を含む集積回路を発達させ」てきたにもかかわらず、私たちは「常在菌へのこれまでにないほどの激しい攻撃に直面している」と、ブレイザー。
その原因は、幼少の成長期における抗生物質の不必要な投与、不必要な帝王切開によって、マイクロバイオームの構成が変化を被るせいではないか、と述べている。
短期間の抗生物質治療でさえ、長期間の影響を常在菌に与える。
本来の姿に回復できるかどうかはわからない。
しかも、ある世代の変化は次の世代にも影響を与える。
こうした変化により、「疫病をもたらす病原体に対して、打つ手がなくなる」時代が来る、と想像すると、戦慄する。
内部生態系の破壊が「抗生物質の冬」をもたらす、という著者の恐れが現実にならないよう、内なる生態系に目を向けることから始めたい。