働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮が根強い。しかし、それでは人生は充実しないばかりか、長時間労働で心身ともに蝕まれてしまうだけだ。
しかも近年「生きる意味が感じられない」と悩む人が増えている。
結局、仕事で幸せになれる人は少数なのだ。では、私たちはどう生きればよいのか。ヒントは、心のおもむくままに日常を遊ぶことにあった。
頭も心も同じようなものだろうと思っている人は少なくないと思いますが、それは間違いです。
「頭」とは理性の場であり、一方の「心」は感情や欲求、感性、直観の場で、「身体」と分かち難くつながっています。
例えば「頭」は仕事を進めるための情報処理を行い、過去を分析したり、未来を予測したりします。
それに対して「心」は野生原理の感情や欲求の場ですから、仕事はしないで「休みたい」とか「眠りたい」「遊びたい」とかいう欲求を抱えていたりします。
本来、動物は「身体」と連携した「心」のみでできているのですが、近代以降の人間は、「頭(理性)」が思い上がって「心」の出した結論を軽視し却下しがちなのです。
「頭」が「心」の欲求に常に「フタ」をしてしまっているのです。
「頭」が「心」を強力にコントロールしようとしているわけですね。これでは、うつ病などの精神的な病気を引き起こしてしまうのも仕方のないことです。
「日本語では主語が省略されることが多い」と私たちは学校で習ってきましたよね。その考え方で言えば、省略されることは多いものの、日本語に主語はあることになります。
でも、そうではなくて、一見、主語とされているものは「主題」を立てているだけであって、そもそも欧米語のような主語がないのではないかという議論が近年活発になっています。
そのため、日本語を用いる私たちは、「私」という一人称がない未熟な「0人称」にとどまってしまうという傾向を帯びているのです。
日本語では自己と対象の主客が合一的で、その間の境目があいまいです。
話者は個人主義の欧米人のような確固とした主体を持っておらず、相手との関係によって話す内容さえも変化してしまいます。言い換えれば「誰」が言ったかはあまり問われない社会。
「誰でも同じ意見である」「同じ価値観を持っている」という前提に立った社会であるとも言い換えることもできます。自分もほかの人間も考え方は同じだから、あえて主語を明示する必要はないということになるのです。
日本人の陥りやすい最大の問題点は、自分と人との「関係性」を最重要視してしまって、「関係性」を守るがために個人の方が歪んでしまうというところにあるように思います。
その結果、個人が精神的に追い詰められていく。
小さな子供が無心で遊ぶように、大人も「心」を中心にして、生活全体を遊ぶべきなのです。
ただし、それは大人ならではの成熟した遊びであり、頭脳を駆使した創造的な遊びになるでしょう。
身近なところで具体的に言えば、料理とか日曜大工、音楽などもよいだろうと思います。実際にそういう「遊び」を仕事にまでしてしまった人もいます。
現代人は、もはやハングリーに働かなくてもさすがに死ぬほどのことにはならないのに、「働くことこそ生きること」という“労働教”にいまだに洗脳されたままなのです。戦後すぐの時代の人々がハングリーに働くことが不可欠だったのは事実ですが、今はもう、そういう時代ではありません。
にもかかわらず、日本人は「ハングリーモード」のスイッチを戻せなくなってしまっている。
生きる手段に過ぎなかった「ハングリーに働くこと」自体が、自己目的化してしまっているのです。もっと一人ひとりが「生きる意味」を大切に生きてもよいのではないでしょうか。
誰でもいつかは必ず死ぬわけです。
世間に振り回されている人が、最後に一番馬鹿を見るのではないでしょうか。
「心」が本当にやりたいことをやらない人生なんて、後悔してもし切れません。