発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて七日ごと、七週に渡り法要を行っていましたた。輪廻の思想により、人の没後四十九日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからでした。
また、その元の生と次の生との中間的な存在である、四十九日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいました。死んだ後、この世に未練があっても留まることが許されるのは四十九日ということでしょう。
六道(りくどう、ろくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、六種類の迷いある世界のことで、
1. 天道(天上道、天界道とも)
2. 人間道
3. 修羅道
4. 畜生道
5. 餓鬼道
6. 地獄道
を指します。
想いも物質も全て波動でできています。肉体を脱ぎ捨てた後残るものは意識体なら、生きていたときの意識の状態が霊界のどの階層に住むのかを決めるのかも知れません。
死んでから体を離れると、当然のことながら、もう肉体的な体は持たないため、この証言にある様に、身が軽くなって、自由」になり、肉体の方の痛みも感じなくなっています。そして、自分が「光」に包まれていることに気づいていますが、この「光」は、私達が普段用いる「光」という言葉とは、同じ意味ではありません。
私達が「光」という言葉でイメージするのは、太陽の光や電球の光の様に、ある光源からどこかの方向に向かって射す光です。しかし、催眠を受けることによって出会う「光」は、この被験者が表現するように「ただ、そこに満ちている光」であったり、「どこからの方向から射すのではなく、何もない暗闇に、突然パッと現れる光」であったりするのです。
したがって、死後に現れる「光」というのは、私達が、この物質界の現象として知っている「光」とは、別のものだということが判ります。しかし、まだこの物質世界で生きている被験者達にとっては、自分が知っている言葉や概念では説明する方法がないため、仕方なく、私達が知っている言葉や概念のうちで最も近いものとして、それを「光」と呼んでいるわけです。
D 他界したのは、何歳の時ですか?
C 四十四歳の時です。
D 死因は何でしたか?
C インフルエンザだったそうです。多くの人が死んだとか。世界中に 蔓延していました。
D それは西暦何年のことですか?
C 1918年です。たしか、10月でした。10月20日。
D この世を去った時、誰かそばにいましたか?
C いいえ。
D 肉体を離れたあと、どんな感じがしましたか?
C 自分の体が見えました。
D どんなふうにみえましたか?
C 青いドレスを着てました。青い、シルクの……誰かが私の「死に装束」として、買ってきてくれたのです。
D これから自分は死ぬのだと、自覚していましたか?
C はい。気が重かったので、もうよくなる見込みはないと思って いました。私が死んだあと、人々がやってきて、どうしてみんな 死んでしまうのだろう、と話し合っていました。本当に、沢山の人が死んだのです。
D あなたのお葬式の様子を教えてください。
C 犠牲者たちは、何列にも並べて埋葬されました。私も、その中の一人でした。一番右の列の一つ目の石が、私の墓です。ああ、何と沢山の人たちが、いっしょに埋められたことでしょう。
D メアリー、あなたはどこに埋葬されましたか?
C 村はずれの、丘のふもとの広々とした草原です。私の上には、何も書かれていないセメントのブロックが置かれました。他の死者たちの上にも、同じようなセメントのブロックが置かれています。余りにも大勢の死人が出たので、一人一人の墓を掘ることなんて、できなかったのです。墓場には、もう場所がありませんでした。
D 死んだあとにも、村の様子を見ることができましたか?
C ええ、村に戻って見ました。
D 何が見たかったんですか?
C 特別に何を、というわけではなくて、ただ見てみたかったのです。どんなふうに見えるのかしら、と思って。でも、長居はしませんでした。
この証言からも判る様に、私たちは、自分の肉体的な死を体験したあと、「意識体」として自分の体から離なれ、どこへでも自由に、しかも瞬時に移動できるようになります。大抵の場合は、自分の死を看取ってくれる人々の姿を見て、自分の通夜や葬式を、参列者と一緒に経験します。
その時には、「自分の遺体がある部屋の天上あたりから見下ろしている」という証言が多く、天井のない場所で死んだ場合には、おおよそ三メートルくらい上空に浮かんでいることが多い様です。(ただし、これは被験者の感覚的表現なので、正確な数値だとは思えません)面白いことに、私達は、自分の遺体や通夜や葬式を見下ろしながら、かなり冷静な気持ちでいることができる様です。
死の瞬間には、自分が肉体から離れて上空に浮かんでいることに気づくと同時に、それにもかかわらず、「自意識として覚醒している」という感覚があることに驚きます。
何故なら、「自分は死んだはずなのに、まだ生きている」という現象を体験することになるとは、予想していなかったからです。しかし、やがて、「な~んだ、死ぬということは、体から離なれて生きるということに過ぎないんだな」と、死という現象が「通過点」に過ぎないことに気づいていくのです。
【出典】生きがいの創造 飯田 史彦著 飯田史彦 研究室へ ようこそ!(福島大学経済経営学類 教授)
私たちの死んで肉体から離れた意識体はどこへ行くのでしょうか?肉体から離れた直後では、まだ本人が「死後の世界の仕組み」を思い出してないことも多いため、指導役の意識体たちが、故人が死を自覚して安らぐために必要なビジョンを、意図的に見せてくれているようです。
終えたばかりの人生で属していた文化や、信じていた宗教等によって、「その人が死を自覚して安らぐために最適なビジョン」が異なるため、その時に見る(指導役の意識体から見せてもらえる)「死後世界の光景」も様々あると言われています。
私達は、死の瞬間に身体から脱け出した後、下に横たわる自分の身体を見てから、「まるでトンネルのようだ」と感じる「次元の境界」を急速で通り抜けます。その際に見る光景は、光のドームに入ったり、すばらしい色彩を見たり、美しい音楽を聴いたり、たいまつを持った人物が迎えてくれるなど、様々です。
信じている宗教の教祖が両手を広げて出迎えてくれたり、宮殿や庭園のようなビジョン(幻影)を見る者もいます。これらは、勿論現実の場所や物質ではなく、本人にとっての「死後の世界」のイメージがシンボル化された「幻像」にすぎません。
臨死体験研究の権威であり、自らも臨死体験の経験を持つエリザベス・キューブラー=ロス博士は、この時のことを、次の様に説明しています。
「愛してきた人に迎えられ、指導役の存在たちに迎えられると、よくトンネルと表現されているものの中を通ります。トンネルは、ある者には川であったり、ある者には門であったり、各自にとって、最もふさわしいものとして現れます。
私の個人的な体験でいえば、野生の花でいっぱいの山道でした。というのも、私にとって天国のイメージが、幼い頃のスイスでの楽しい思い出をもとにしたものだったからです。このように、死んだあとに見る世界のイメージは、各自が属していた文化によって決まります」
つまり、自分にとって、「自分は死んで、人生と人生の間にある中間生(死後の世界)へと戻ってきたのだ」と自覚するために最適なビジョンが、ここで自然に目の前に浮かんでくることになるのです。なぜなら、物質というものがない中間生では、すべてが思い通りのビジョンとして現れてくるためです。
肉体から離れた直後の場面では、まだ本人が「死後の世界の仕組み」を思い出してないことも多いため、指導役の意識体たちが、故人が死を自覚して安らぐために必要なビジョンを、意図的に見せてくれているとも考えられます。
終えたばかりの人生で属していた文化や、信じていた宗教等によって、「その人が死を自覚して安らぐために最適なビジョン」が異なるため、当然ながら、その時に見る(指導役の意識体から見せてもらえる)「死後世界の光景」も様々なのです。したがって、キリスト教徒として生きた後にはキリスト教的なイメージを、仏教徒として生きた後には仏教的なイメージを死後のビジョンとして見ることになります。
私達が「あの世」と呼ぶ心理的・精神的世界は、「この世」でいうような「物質」がなく、直線的に進む「時間」という感覚もない世界です。そこでは、全てのものが、物質ではなくイメージやビジョンとして現れますが、中間生では、そのビジョンこそが「現実」なのです。
むしろ、永遠で自由な中間生から見れば、人生で私達がとらわれている「物質」という束縛こそが、むなしい一瞬のまぼろしにすぎないと言えるでしょう。
言い換えれば、この物質世界に住んでいる時の私達は、心理的・精神的世界である「死後の世界」(中間生)のことを、脳がつくり出した「まぼろし」だと考え、真面目に取り合わない傾向があります。しかし、一旦中間生という本来のふるさとに戻ってみた人達によれば、「物質世界」という狭い箱の中に住んでいる自分の境遇を忘れたまま、物質世界を取り巻く広い「精神世界」の存在を否定して物欲にとらわれた生活を送る人々が、とても哀れな存在に見えるのだそうです。
その意味で、私達がとらわれている「物質」こそが、むしろ実体のない「まぼろし」であり、私たちが軽んじている「精神」こそが、むしろ私たちの「実体」なのです。私達の「精神」とは、「意識体(俗にいう魂)」と表現しているもののことであり、それこそが、永遠に存在する、私達の真実の姿であると言えるでしょう。
その意識体は、しばしば「光のようだ」と表現されます。私達の本来の姿は「光」であり、正確な表現ではありませんが、判りやすくいうと、光としての波長の高さ(強さ)によって、そのまぶしさが異なるようです。そのため、臨死体験者の証言では、意識体としてのレベルが高いほどまぶしく光り輝き、レベルが低いほど暗く沈んで見えるのだそうです。
それでも、私達は誰もが「光」であり、ただ、その波長によって、輝きの程度が異なるだけなのです。どのような人も、本来はみな「光」なのです。
【出典】生きがいの創造 飯田史彦著
私たちは本来の「意識体」の姿に戻ったあと、身体を離れてトランスパーソナルな状態(自分という枠を超えて万物とつながった状態)になったからこそ可能な、様々な体験を味わいます。その様な証言を、ウィリストン博士による退行催眠の事例に基づいて、幾つか分析してみましょう。
*被験者は三十歳の女性。精神世界に関する知識は全く持っていない
D 肉体を離れた後、どこへ行きましたか?
C その上の方にいました
D 何の上ですか
C 私の遺体の上です
D どのくらい、そこにいましたか?
C よくわかりません。どのくらいと聞かれても……さあ……多分、 一日かそこらでしょうか。でも、はっきりとはわかりません。
D それから、どこへ行きましたか?
C 先だっていた、友達のところへ。
D なるほど。先に物質世界を離れていたお友達と、話ができたんですか?
C ええ。
D どうやって?
C そうですね、口は使わないんです。思いが通じ合うといえばいいのかしら。
D お友達の顔が見えましたか?
C 話し方で、判るんです。
D 地上の人々が見えましたか。何かしているのが見えましたか。
C ええ、でも、特に誰かと連絡を取りたいとは思いませんでした。
D 他界した直後もですか?
C そうねえ、体を離れたすぐ後には、話しかけてみたかったけど、そんな感情はすぐに消えて、新しい環境になじんでしまったわ。
D 体から離れた後に、誰と会話をかわしましたか?
C 親戚や友達、それから他にもいたけど、よく覚えていません。
D お父さんやお母さんとは?
C もちろん話しました。
D お父さんのことをどう感じましたか?
C 父に対する嫌悪感は、すっかり消えていました。 父を許す気持ちになり、愛せるようになってました。こちらの世界に来て、初めて、父が誰だったのかが、判ったからです。
D 誰だったんですか?
C 過去の人生で、何度も一緒に過ごした人でした。私たちの間には、解かなければならないしこりが残っていたのですが、生きている時には、そのことを忘れていたのです。
この証言の特徴は、私たちが体から離れ、「口を使って会話する」という手段を失ったあと、どのようにして他の意識体たちとコミュニケーションを取るかということが、感覚的に描写されていることです。
それは、「思いが通じ合うといえばいいのかしら」という表現で描写されていますが、この表現こそが、私たちが本来、「トランスパーソナルな存在」(自己を超えてつながりあっている存在)だということを、如実に示しているといえるでしょう。
つまり、もともとトランスパーソナルな存在である私たちは、この物質界を訪れて一つの肉体に入った後でも、肉体的な制限を受けながらも、やはりトランスパーソナルな存在として、心の奥ではつながり合っているというわけです。
例えば、ある磁石(私)と別の磁石(あなた)が、間に一枚の紙(肉体)を置いても引き付け合うように、物質的には紙(肉体)によって遮断されているかのように見えても、実は磁力(見えないコミュニケーション)によって結ばれているのです。
【人生で出逢う人には皆、必然性がある】
また、この証言によると、人生を終えたあとで、すでに先立っていた人々の意識体とコミュニケーションを取り、その人生での人間関係の秘密を理解してお互いに許し合うという、一種の儀式のような過程が待っているようです。
このような証言は実に多いため、人生で出会う人々は、親友も宿敵もみな、深い理由に基づき、必然性があって出会っているのだということが判ります。
飯田史彦 研究室へ ようこそ!(福島大学経済経営学類 教授)
次の証言でも、意識体としてのコミュニケーションの方法について、具体的に述べられています。
C もう自分の体にはとどまるのはやめようと決心した時、体が光で満たされたような感じがしました。
自分が輝きだして、肉体を離れると、そこには先立っていた姉が待っていました。姉は、「怖がらなくてもいいのよ」と言いました。
「怖くないわ」と、私は答えました。とっても平和な気持ちで、あの激痛が嘘のようです。
私は、姉があんまり穏やかなので、ちょっと驚きました。いつも、キンキンした声でまくし立てるようにしゃべる人でしたから。
でも、今の姉はとても穏やかで、落着いて見えます。まるで、一緒にいる人の心を包み込むような感じです。
それから私は、自分が体全体でものを見たり聞いたりしているのに気がつきました。自分の体が、どんどん大きく膨れ上がっていくんです。
まるで風船みたいに膨らんでいくんです。体が軽くなって、どんどん膨張して、ああ、いい気持ち。
病気でむくんだ体とは違います。もっと軽やかで、自由な気分です。
今は、夫の気持ちも理解できます。子供たちも、私がいなくてもやっていけるでしょう。
家族と別れる辛さも、消えてしまいました。私がいなくても大丈夫だ」と、確信できたからです。
私はもっと先へ進んで、私のまわりに漂うエネルギーの指示に従わなければなりません。
D まわりのエネルギー? それはなんですか。お姉さんのほかにも、そこに誰かいるのですか?
C いくつかのエネルギーは、人間の姿をしています……もう手足はないけれど、なんとなく、まだ人間のように感じるんです。
ほら、誰かの視線を背中に感じることがあるでしょう? それと同じです。
でも、嫌な感じじゃないの。とってもいい気持ち。だって、私を愛してくれているんですから。
姉は、事故の前と同じに見えますが、他の人たちは……どんな顔を しているのかは、よくわかりません……
人間というよりは、私を支え、勇気付けてくれているエネルギーと言った方がいいような気がします。
私はみんなと語り合うことができますが、まだ、こちらから話しかけたことはありません。
この証言には、多くの貴重な情報が含まれています。
まず、生前は「キンキンした声でまくしたてるようにしゃべる人」であった姉が、他界したあとには、「穏やかで、落着いて見え、まるで、一緒にいる人の心を包み込むような感じ」になっていたという点です。
言い換えれば、私達は、この物質界で生きている時には自己中心的な性格であっても、人生を終えて本来の姿になったあとは、みな「善なる存在に」戻っていくのです。
また、「今は、夫の気持ちも理解できます」という証言からは、物質界では理解できなかった人の気持ちや、複雑な人間関係の仕組みも、人生を終えて本来の姿に戻ったあとには、全て理解できるようになることが判ります。
死後には完全にトランスパーソナルな状態に戻るため、自分以外の存在の気持ちが、手に取るように判るからです。
さらに、この証言からは、人生を終えたあとで自分を迎えにきてくれる存在たちに、二つの種類があることが判ります。
一つ目は、「人間のように感じるエネルギー」であり、終えてきたばかりの人生で関係を持ち、自分に先立って他界していた意識体です。
これらの意識体たちは、人生を終えてきたばかりの自分に対して、「あの時、私があんなことをして、あなたを傷つけてしまってごめんなさい」などと、「和解」をするために現れてくれます。
そして二つ目は、「人間というよりは、私を支え、勇気付けてくれているエネルギー」たち、つまり、いつも自分を見守りながら、ガイド(指導者)の役割を果たしてくれている存在たちだと言えるでしょう。
このように、催眠中にビジョンとして現れてくる「光」達の中には、いわゆる「マスター」(先生)のような叡智に溢れる存在もいれば、終えてきた人生で家族として過ごしたような、より身近な存在たちも含まれています。
ただし、一般的には、「マスター」として感じるほどの存在は「非常にまぶしく輝く光」(波長の高い強力なエネルギー)として見え、より身近な「縁のある意識体」たちは、マスターたちと比べると、普通の光として見えるようです。
飯田史彦 研究室へ ようこそ!(福島大学経済経営学類 教授)