結果には必ず原因がある。
これが仏教の根幹とされる因果の道理です。
うまくいかない時や苦しいことが起きた時、原因をどこに見ればよいのでしょうか。
どうして俺がこんな目にあうのだ。
俺は何も悪くない。
失敗したのはあいつのせいだ。
俺は何も悪くない。
業績が悪いのは景気のせいだ。
俺は何も悪くない。
自分以外の相手や状況に原因を見れば、怒りや憎しみの心が増し、怨みや呪いの心で苦しみます。
逆に、原因を自分に見ることができれば、「自分のまいたタネの結果だ」と受け入れられます。
そして、自分のどこを改めるべきかを冷静に見ることができます。
冷静に見ることができた時、そこには怒りや憎しみの心も、怨みや呪いの心もありません。
ところが、「原因を自分に見ること」と「自分のせいだと思って自分を責めること」を同じだと思っている人が多いことに驚きます。
諦観(たいかん)という仏教の言葉があります。
因果の道理を明らかにみることです。
原因を明らかに見ることは自分のせいにすることではありません。
困難や苦しいことに直面した時、他人のせいにする人もいれば、自分のせいにする人もいます。
全く違うようにも見えますが、原因を正しく見ていない、見ようとしていない点では同じです。
他人や環境に責任転嫁をするのも、「どうせ俺が悪かったのさ」「どうせ俺はダメな人間さ」と投げやりになったり自分を責めて落ち込んでしまうのも、原因を正しく見ていないからだと言われます。
「全部に問題があることはない。問題があるのは一部だけだ」と言った人がいます。
「経験上、本質的な問題の原因は1つか2つしかありません。たくさんの問題があるように思えても、一つの本質的な問題を原因として起きた現象なのです」と彼は続けています。
全部に問題があるということはない。
改めるべきは1つか2つ。
ところが、ぜんぶ自分のせい。
ぜんぶ自分が悪い。
そう思っている人は、本当に改めるべき問題に気がついていない人、あるいは見ようとしていない人です。
本当に改めるべきところがわかれば、他は問題ないのですから、落ち込むことはありません。
何をすればよいかもわかりますから、自ずと解決の道も見えてきます。
原因を相手に向けると怒りや憎しみの心、怨みや呪いの心になります。
自分に原因があったと納得できたとき、怒りや憎しみの心、怨みや呪いの心はなくなります。
原因を改めることができれば、同じ問題を起こすことはなくなり、自分を向上させることが出来ます。
原因を明らかに見る。
言葉はシンプルですが、実践は簡単ではないことを思い知らされます。