二〇一五年十一月一日に福岡市中央区天神のレソラ天神で開催された九大病院がんセンター市民公開講座で、大井玄・東京大学名誉教授の講演を聞いた。大要は次の通り。
私たちが恐れる老年期の病気の双璧は、がんと認知症でしょう。
この恐ろしい二つの病気が併発したらどうなるかについてお話します。
第一の予想として、がん発見に至る経過は、非認知症では、おかしいと思った時、つまりがんの進行が比較的早い段階で医療機関を訪れることが多いでしょう。
逆に認知症者は、偶然または見逃しえない出来事が起こって初めて医療機関を訪れることが多いのではないでしょうか。
第二に、がんの疼痛(とうつう)を訴える割合は、認知症は少ないと思われます。
第三に、疼痛緩和のために鎮痛剤を使用する割合は、認知症者のほうが少ないはずです。
そこで私は、精神科で有名な都立松沢病院の、認知症と非認知症者のがん患者を調べ、比較したところ、予想は的中しました。
二つの疾患の並存が、がんの苦痛をやわらげることが観察されました。
がん発見は、八十四人の非認知症がん患者では、六割以上が身体の違和感を覚えて診断を受けた時。五十人の認知症高齢者では、九割以上が貧血評価などの際、偶然がんが見つかるか、血便、嘔吐などの症状が現れて見つかりました。
痛みの訴えは、非認知症では八割近く、認知症者では二割少々に認められました。
鎮痛剤使用は、非認知症者では八割近くなのに、認知症者では一割少々と、大きな差がありました。
激痛の場合は麻薬を使いますが、非認知症者は四割が必要としたのに対し、認知症者はわずか一例でした。
がんに対して、認知症には効用があるのではないでしょうか。
今年の春に直腸がんで治療を受けた七十歳代の認知症女性は、若いころの思い出は話しても治療の苦痛は訴えず、疼痛も死への恐怖もありませんでした。
がんと認知症がコンビニなった時に、精神と肉体的な苦痛が減るというのは興味深いことです。
私が認知症と関わった経験では、自分の生活暦はいろいろ話しますが、死ぬことの恐怖を語った人は一人もいません。
井上靖の私小説に「わが母の記」があります。
ぼけた母が、四十年連れ添った亡き夫のことはひと言も言わず、墓参りも気にせずに、幼いころ憧れていた従兄弟の話ばかりする。
さらに老いると幻覚が現われ、祖父に育てられた幼いころに戻っていきました。
これは彼女にとっていいことで、幻視や幻覚ではなく、そう感じた状況が過去にあったのだと理解したら、「状況感覚」として正確なとらえ方になります。
私たちは皆、見るもの聞くもの触るものが世界をつくり、その中に自分がいると思っていますが、実は脳が、自分の経験と記憶からそれぞれの世界をつくっているということがわかります。
米国で八十五歳以上の三分の一、九十五歳以上では過半数が認知症だといわれます。
病気は常に少数であるはずです。
超高齢者の多少のぼけや「天寿がん」は、生物の必然、老耄の身体表現とも考えられます。
認知症、あるいは老耄は、人生の最後に自然が用意してくれた、痛みも恐怖もなく、安心して老い、安心して病み、安心の中で亡くなる仕組みではないでしょうか。
講演のあと、高齢の男性が死と尊厳について質問したのに対し、大井氏は「尊厳は自分が決めること。
祖先の墓に入る死に方も、百三八億年前のビッグバンの水素と酸素に戻りたいと思うのも尊厳。自分以外の意志を尊重することだと思う」と答えた。
続いて中年の女性が、「十三年前に母を亡くし、後悔と悲しみがずっとあった。
今日の話で、母はしあわせな死を迎えたと死って心が晴れた」と涙声で話した。
大井氏は「死は命のバトンタッチ。すばらしいバトンタッチだったのでは」と言葉を添えた。
熊本県合志市にある国立菊池病院に、永らく認知症の医療に携わっている髙松淳一前院長を訪ねての帰りのことである。
山麓の道を一時間以上も徒歩でくだって三里木駅付近まで来た時、むこうから一人の老婆が道路の真ん中をのっしのっしと歩いてきた。
その迫力に背後から来た車は静かに除けて通過した。
やや上向いて定まらない視線は死人のそれで、およそ一時間前に髙松前院長が言った、「認知症の人はどこか人間を超越しているように見えることがあります」を思い出させた。
やがて目の前に仁王立ちしたので、「危ないから白線の外を歩いてください」と身振りで示した。
私の言葉が届いたのか、老婆は道路脇の白線の上を歩き始めた。
その後ろ姿を目で追いながら、ちらりと腕時計を見て、電車の時刻が迫っていなければしばらくいっしょにいてもいいのだがと思いつつ三里木駅に急いだ。
でもあの場合、「どこかでお会いしましたか」とやさしく声をかけたほうがよかった。
あとになってそれを知った。
…
自分はだれなのか。名前を忘れてもいいではないかと髙松前院長は言う。
「周囲の人が知っていればすむことを、なぜ当人にも求めて苦しめるのでしょう」。
さらに、「自分の名前を答えられない女性に、色白ですねと言ったら、私のことをずっと覚えているんです。
彼女にとっては自分の名前よりも、そちらが大事なんです」とも言った。
そして、「認知症になれば現実がわからないから楽だろうという人がいます。
それは半分正しく、でも半分は間違いです。
現実がわからないという言い方は失礼で、本人のわかり方になったと言うべきかもしれません」と話した。
三里木から熊本駅に向かう列車の中で私は鞄からボイスレコーダーを出し、イヤホンをセットしてノートをひざの上に開き、髙松前院長が話した驚くべき内容を書き起こし始めた。
窓から暖かな夕日の差し込む二月二十四日のことだった。
…
認知症という言葉に漠然とした不安を感じます。
もの忘れをして自分がわからない人は、はじめは「不安で怖いだろうな」と思いますが、認知症が進んでいくと、「間違ってわかる」ようになります。
たとえば自分がわからなくなったお年寄りがタイムスリップして、「私は四十だ」と、自分を「わかる」わけです。
そして間違ってわかれば、わからないという不安が消えます。
認知症の方はそうして自分なりの生き方をされているように思います。
それを私は「もう一つの生き方」とみなしています。
しかもその方には、かつて四十歳だった時がありましたから、今だけを見て間違いだとは言えないんですよ。
患者さんが「自分は四十」と言えば、私は「そうですね」と言います。一般では否定されますが。
その話は深いですね。
一般的には忘れたりわからなくなったりすることは全部否定されますね、社会からも。
でも当事者はけっこうけなげで、周囲からどう見られようと、なんとか必死に生きておられる姿を当院(菊池病院)で見ます。
それは、社会や家庭ではなかなか出せない姿です。否定されますから。
弱いので一人では生きていけませんが、患者さんの集団では心地よいと思います。
でも現実には、住み慣れた所でいつまでも一人で、しっかり生きていかなければならないので、私から見れば、少しきついな、もう少し大目に見てほしいな、と思います。
認知症患者の前では私のほうが揺らぎそうです。
違和感はあるでしょうね。
でも患者さん同士は違和感があまりなく、親和性があるように見えます。
人は、自分に似たものに対して親和性を持ちますからね。
出身高校や持病が同じというだけでつながるようなものです。
今の仕事で得るものは多いのではないですか。
ほとんどもう、診察の時に境がなくなりました。
家族でもない、でも何か一体化します。
すごく身近に感じるんですよ。
さきほど「間違ってわかる」と言いましたが、家族すらわからなくなった人でも、知らない人に会って気に入ったり相性がいいとわかったりすると、家族にしてくれるんです。
だから「どこかでお会いしましたか」と声をかけると、「そうですね」と返してくれ、そこでつながるんです。
「初めまして」ではいつまでも距離が縮まりません。
人は馴染みの中で生きていて、認知症になってもそれがなければ不安ですから、よく周囲の人を知り合い=馴染みの人にします。
特に入院されている方は重度ですから、幼なじみや従兄弟だと誤認されるんです。
でも本人にとっては誤認じゃないんです。
だから私も、初めて会ったのに「高校の先輩」と呼ばれ、そのとき患者さんは私よりも若いのです。
そうやって面目を保っているのでしょうから、病院ではそれをつぶさないようにします。
家では許されないでしょうからね。
だから「病気だから病院に行きましょう」という論理は通じません。
本人にその認識はあまりありませんから。
それで、何かのついでに家族と来られることになります。
そして私と対等に話し、「今日は楽しかった」と帰られるだけです。
そのあいだに検査をし、薬も調整するんです。
認知症と死について話してください。
死というよりフェードアウトの仕方だと思うんですよ。
がんで死ぬと現実の中での苦しみがあるわけです。
ところが認知症の方はがんを告知されても、「実感的にがんを生きていく」んです。
痛みも鈍くなりますからね。
精神科という場所はいろんなことが複雑にからみ合って、否定的な場所ですから、最期の時期を過ごすことには批判や非難があります。
でも患者さんは平気です。
居心地のいいところが自分の居場所なので、病院にいるのに病院じゃなく、「ここはよかとこ」なんです。
心のアットホームというのは、決められた場所ではないんです。
やはり人なんですよ。
人とつながって、昔話をしながら過ごしたいようです。
認知症になると自分の体験が浄化され、生と死のグレーゾーンみたいなところに行って、八十歳なのにお母さんといっしょにいるわけです。
死のほうがこっちに来る。
そうすると安心なんですよ。
「お母さんは仕事に行っています」などと言われます。
お父さんはけっこう亡くなったままなんですけど。
そうやってたくさんの大切な人を呼び戻して暮らしているお年寄りが実際に亡くなられると、死んだというよりも消えてしまったように私には感じられます。
認知症になって自分がわからなくなってくると、充実した時に戻り、フィナーレになると黒澤明監督の映画「夢」みたいに、オムニバスでいろんなものが出てくるようです。
「認知症はこわい」と言われる方がいます。
でも、なっていないのになぜこわいとわかるのですか。
「死ぬのがこわい」とも言いますが、死んで帰ってきた人は一人もいません。
どちらも、だれかからそう思い込まされているのではないですか。
…
イヤホンを外した。
私は衝撃を受けていた。
がんを恐れ、認知症を怖がり、死におびえている私が、ふと、こうなってもいいなと思ったからである。
認知症は、もの忘れなど高齢者特有の認知機能の低下(中核症状)よりも、幻覚や妄想などのBPSD(周辺症状)が問題視され、その姿に多くの人が恐怖を感じている。
それらについての言及がなかったのは、彼は認知症を「別次元への入口」「次の世界のありさま」のようなとらえ方をしているのかもしれなかった。
もしそうであれば科学絶対の今の時代には受け入れられにくいだろう。
科学は数値が重要で、病人はしあわせなはずがないと断定するからである。
別れ際、「でも私の論は絶滅危惧種化していて、自分がいなくなれば消えると思います」と笑い、再来月から熊本県内のほかの病院に勤めることになるとも言った。
私に何かできないだろうか。
それを真剣に考えている。