人間は自然に生かされてきたのにも関わらず、私たちはいつしか人間こそ一番偉い存在だと思いあがるようになり、川の流れを変えたり、山を削ったりしながら自然をコントロールしようとしてきました。
私たちは物凄いスピードで石油、石炭、そして天然ガスを消費しており、大量生産、大量消費を繰り返して地球をゴミだらけにしながら経済を大きく発展させ、長い間それを「進歩」と呼んできましたが、そんなに焦って経済を成長させる必要はないのではないでしょうか。
哺乳類の動物は一生の間に心臓を約20億回打ち、それは体の大きなゾウも小さなネズミも同じです。ところが、ゾウの心臓はゆっくりと動くことから寿命が長く、一方のネズミの心臓はゾウの何倍ものスピードで動くため、あっという間に20億回を打ち終わって、寿命は圧倒的に短い期間で終わってしまいます。
この法則は恐らく21世紀に暮らす私たちにも当てはめることができ、意識的にスピードを落とさなければ、人類や地球が寿命を迎える日がそう遠くないことは現在の地球環境を見れば明らかです。
今問題に直面しているのは約40億年の歴史を持つ地球ではなく、私たち人間の方なのであって、私たちが考えなくてはいけないのは「どうすれば自然をコントロールできるのか」ではなく、「どうすれば“私たち”をコントロールできるのか」なのではないでしょうか。
もともと日本人は自然と調和するように生活しており、江戸時代の日本では障子、ふすま、袋物、そして服まで紙で作られていて、それらは修理されながら長く使われ、ボロボロになって使えなくなったら燃やされていました。
そして、その灰ですら洗濯や染め物として再利用し、最後は肥料として土に還されることで、当時は全てのものが地中と地上を循環していたため、日本では「自然を支配する」という概念が生まれなかったのです。
従来の日本文化では、すべてのものは土に還されるという循環がしっかりと機能していた
一方の欧米では、自然を自分たちの力で支配できると考える傾向にあり、それは彼らが信仰しているキリスト教などの一神教が、地震や津波など自然災害がほとんど起きない砂漠地帯で生まれたからだと考えられています。
日本人は日常的に自然災害に苦しんできた歴史を持っていることから、人智を超えた自然界の力に逆らうことは愚かであると理解し、自然を神様として奉りながら生活していたため、欧米人とは対極的な概念が形成されていきました。
大自然を支配しようとすることの愚かしさを日本人は大昔から理解していた
しかし、高度成長期を迎え日本が裕福になるにつれて、日本人は自分たちの絶対的な価値観を自然から経済的な豊かさにすり替え、田舎を捨てた多くの若者が東京に出て行きました。
より多くの人口を支えるために、水の供給量を増やす試みがなされる過程で、日本では土木の力が過信されるようになり、川や山に手を加えて人間の都合に合わせて自然をコントロールしようとする動きが強まっていきます。
日本などでは人間社会が行き詰まり、社会がおかしくなるという傾向が見え始めています。
都市は自然を徹底的に排除し、人間の都合で全てが予定されているため、予定されていないことは不祥事として扱われます。
現代人は電車が数分遅れただけで大騒ぎし、その様子を見ればわかるように、あらゆる事が予定された社会に生きる人々は、“正確なスケジュール”なしには生活できず、「どうなるか分からない漠然とした未来」を恐れながら毎日を過ごしているのです。
この漠然とした未来への不安を補っていたのが欧米では宗教、日本社会では自然がその役割を担っていましたが、その自然が都市化によって排除され、頼るものがどんどん失われているのですから、将来が不安だと言って未来を悲観したり、中には殺人を犯したり自殺をはかる人々が目立ち始めるなど、社会全体が不安定になっているのも十分納得がいきます。
実際、ある女性が中学生のころ自殺しようと考えていた時のことについて書いた『14歳の私が書いた遺書』という本があり、その中には「友達がこう言った」や「先生がああ言った」など人間関係の話ばかりで、「台風が来た」や「桜が咲いた」など、身の回りの自然に関しては一言も述べられていなかったそうです。
このように自然を自分から切り離してしまえば、そこに残るのは人間だけになるため、人間同士のことばかり気になって、人間関係がこじれるのは当然ですし、すぐに人のせいにするのは都会の人間の典型的な特徴だと言えます。
田舎でヘビに噛まれたら「しょうがない」で済みますが、都会でヘビに噛まれたら「誰が放したんだ」と責任問題になり、問題を追求すれば必ず人間の行為に行き着き、誰かのせいにすることができるでしょう。
東洋医学の考え方に、人間の体は自然の一部であるため自然との不調和が心と体の病気を産むというものがあるように、この人間社会の乱れを治す唯一の薬は自然を尊いものと考える日本人本来の心を取り戻すことなのかもしれません。
現代人は「数字は嘘をつかない」などと言って、徹底的に効率化を進め、情報や統計ばかりに頼ってしまった結果、頭は利口にはなったものの、命のつつしみを考える深い思考力や理解力を失ってしまいました。
既存の資本主義は生産することに最も価値を置くため、役目を果たし死に向かう生産物には目もくれません。しかし、生と死は一つの命の表と裏であるため、死を軽く扱えば生も軽くなってしまうのです。
日本人が昔よく口にしていた「もったいない」や「おかげさまで」という言葉の中には、新しい資本主義を構築するヒントが宿っており、21世紀に生きる日本人の使命は、景気をよくすることではなく、忘れかけていた自然に対する感謝や利他の気持ちなど、日本人本来のDNAを取り戻すことなのでしょう。
自然界というのはよく弱肉強食の世界だと言われる一方、誰も絶対的な強者にはなれなかったのは、誰かがそうなれば生き物の世界は潰れてしまうからで、今までもこれからも人間が絶対的強者になることはなく、これが自然界の真理だということを忘れてはいけません。
生産して消費するだけの直線的な世界観は片道切符を持って旅に出るような不安な気持ちを生み出しますが、かつての日本人が持っていた自然に還すという循環的な世界観にはどこか安心感があるため、そういった概念を取り戻すことができれば、大量生産・大量消費をしなくても安心して暮らせるのではないでしょうか。
私たちの生活基盤の中で一番大切なことは自然に対する礼儀作法をわきまえることで、そうしていれば地球からの信頼を少しずつ取り戻すことができ、私たちの存在をもう一度認めてくれるのかもしれません。
都市部に人口が集中し、土を1日に一回も見ないという人が大半の現代では、虫やバイ菌を排除し衛生的な生活を送っているため、多くの人が土は汚いものだと思っています。
しかし、私たちが毎日何らかの形で食べている作物は土の循環の賜物であり、私たちは土を食べて生きています。土を汚いと言うのは、自分自身のことを汚いと言っているのと変わらないのかもしれません。
作物は体内の養分バランスを保つために、土中の水分や養分を根から吸収して実に貯蔵し、われわれ人間や動物はその栄養豊富な実を頂くことで命をつなぐことができています。そして、人間や動物が排出する糞尿や死骸は長い年月をかけ、虫や微生物によって分解されることで土に戻り、その土が再び作物の栄養となるのです。
大分県で無農薬農業を営んでいる赤峰勝人氏は、土を汚いものだと見なし、土をないがしろにするのではなく、私たちがこのような見事な自然の環境の中で土と共存していることを理解すべきだとして、次のように述べています。
「傲慢の『傲』という字は『人が土から放れる』と書きますが、私たちは土をないがしろにし、全ての物が循環しているということすら忘れかけていました。この宇宙に存在する全てが互いに支え合い、生かし合い、繋がっており、私たちは次の命のリレーを繋げなくてはなりません。」
日本各地で目にする閑静で清潔感のある住宅街は、その多くがススキ原や野原を埋め立てて建設されたものですが、赤峰氏によると、地球に存在する全ての生物には、そこに存在している意味があり、それを人間の利益のために人為的にコントロールするということは、地球の循環規則を破壊する行為なのだと言います。
たとえば至る所に生えている竹は、実は40種類以上のミネラルを作ることができるため、痩せている土にはまず竹が生え、根を深く張り、柔らかな養分豊富な土が作られ、そこから竹が作り出したミネラルなどの養分の力を借りてススキやハコネ、ナズナが生え始めると言われています。地球上の生物はこのように支え合いながら土を豊かにして命を繋いでいますが、それにも関わらず、人間はそういった自然の営みを無視してススキ原や竹林を埋め立てているのです。
夏は涼しく冬は暖かいと言われている日本古来の茅ぶき屋根は、ススキやイネ科の植物で作られています。年数が経ち、劣化した茅は畑に置かれ、そこで長い年数をかけて少しずつ土に戻り、その過程で茅に含まれているカルシウムなどの養分が土を豊かにして、それを次の命に繋げるのです。
しかしながら、茅ぶき屋根は茅の手入れに多くの人手と時間を要するのに加え、茅の材料となるススキやイネ科の植物の確保が容易ではないため、次々と茅ぶき屋根の建築物は解体されていきました。
エアコンがあれば快適さは保てるかもしれませんが、鉄やゴム、プラスチックなどで作られている現代の建築物は、解体した際にその廃材を土に戻すことができないため、廃棄処分場で焼却処分されるしかありません。古来から続いていた住宅と土の循環は、「住まい」にしか目が向かなくなってしまった現代人によって、破壊されてしまったと言えるでしょう。
作物に関しても、古来から日本は、大根やジャガイモ、ニンジンやキャベツなど多くの作物を限られた面積の畑の中で栽培する少面積多品目の農業形態を守り続けていました。
少ない面積で何十種類もの作物を栽培することで、それぞれの作物がミネラルやカルシウムなど様々な養分を土に還元し、土を豊かにすることで限られた土地を守ってきましたが、戦後日本人の食文化や農業形態は欧米化し、現在では日本は作物を絞り込んで少品目を大量生産するアメリカ型の近代農法が一般的になりました。この農法は生物の相互作用の循環を切り捨てていることになるため、結果的に作物にとって本来不必要である農薬や肥料なくしては、立派な作物を育てることができない状態を作り出してしまったのです。
同じ土地で同じ作物ばかり作り続けていると、土は?せこけ、作物は十分な養分を土から享受できずに生命力が低下、病気にかかりやすくなります。その結果、作物を病気や害虫から守るため、大量の農薬を畑に撒くことになります。
しかしその農薬は養分を作る草を枯らし、土を作る虫や微生物を殺し、それが循環の停滞に繋がり、さらに土が痩せるという悪循環に陥ったのです。
効率的な農業を目指した農家では、農薬や化学堆肥を大量にばら撒きましたが、同様に人間も、殺虫剤などを使って日々の生活から虫やバイ菌を徹底的に排除し、病気になれば化学成分の塊である薬を飲み、毎日添加物まみれの食事をしてきました。
そして農薬や化学堆肥が大量に使われ始めた昭和37年ごろから、畑では作物が原因不明の病気や虫に、生まれてくる子供たちはアトピーやアレルギーなど原因不明の病気に悩まされる異常事態が起き始めたと言われています。
農薬や化学堆肥は人体に害をもたらすのではないかと、ニンジン農家を営む赤峰勝人氏やリンゴ農園の木村秋則氏ら一部の農家は、無農薬栽培に方向転換をしましたが、作物も人間も薬なしでは生きられなくなってしまう現状について、赤峰勝人氏は次のように描写しています。
「人間と土は同じ循環の中で生きています。畑で起こっていることが人間にも起こっていると考えても不思議ではありませんよ。」
このような自然の循環から逸脱した農業は、畑や人間から「生命力」を奪い、自分で生きる力を失った私たちは原因不明の病気などに悩まされるようになりました。私たちにとって、こうした大きなツケを払ってまでも近代農業が必要だったかと言うと、そうではないようです。
確かに、総務省統計局によると日本の人口は昭和初期頃から爆発的に増加し、人口増加に伴い必要とされる食料が増えたため農薬を使って大量に作物を得る必要があったように見えます。
ところが、クリエイターの高城剛氏が著書「オーガニック革命」で述べているように、日本は戦後から欧米食を基準とした食物の熱量で算出されるカロリーベースで食料自給率を算出するようになったため、私たちは日本の食料自給率が低下したと単純に信じ込んでしまいました。しかし実際のところ、食料自給率が低下したのは日本人が小麦や肉、乳製品を大量に消費し始め、それらの確保を輸入に頼った結果、起きた現象なのです。
そのため、日本人が小麦や肉類の代わりに伝統的な米や野菜を多く消費するようになれば、食品の確保を輸入に頼る必要がなくなり、食料自給率は必然的に上がると高城剛氏は述べています。
痩せてしまった土や、近代的な農業を前提に品種改良が進んだ今の農作物では、農薬や化学肥料を使わない栽培は難しいと言われていることも事実ですが、木村秋則氏は、中でも特に無農薬では栽培が不可能だと言われていたリンゴを自然農法で栽培することに成功しました。
木村秋則氏が無農薬でリンゴを育てることができたのは、土の表面や土中に住んでいる虫や微生物の声に耳を傾け、土を豊かにする大豆などの植物や雑草をも大切にしたことにあります。また、落ち葉などが微生物に分解されたことによって、触れると少し暖かい、まるで山にあるような養分豊富な土を作ったことも、無農薬リンゴ作りに成功した一つの理由なのです。
木村氏はリンゴ栽培の合間に無農薬で米の栽培も行っています。通常、米農家が丹念に田んぼを整備するのとは対照的に、木村氏の田んぼは土の塊が目立ち、ボコボコとしています。その一方で、他の農家と比較して、より多くの米が収穫できるのです。
木村氏によると、田んぼがボコボコで整備されていない状態だと、安定するために米が深く強い根を張るようになり、その結果より多くの養分を土から吸収し、通常より多くの実を実らせると言い、木村氏は害虫や病気など表面的なところではなく、土を大事にしなければいけないとして、次のように述べました。
「作物は農薬や化学肥料がなくても良い土があれば自活する力を持っています。虫や病気のせいで作物が弱るのではありません、作物が弱っていたから虫や微生物が作物を分解して土に戻し、命を次に繋ごうとしているだけなのです。」
水でさえも、人為的に与えられていない作物は生き延びるために根を地中の奥深くに張り巡らし、土中のわずかな水分を吸収しようとするため、水を与えないで栽培された作物はみずみずしく味が濃い生命力豊かな作物になるそうです。
作物が自然に根を伸ばす過程で土は空気を含んで柔らかくなり、虫や微生物の活動が活発になって養分の多い土ができ、収穫量を増やすことができます。そのため、農家が本来するべき仕事とは、農薬や化学肥料で自然をコントロールするのではなく、循環の法則に従って、作物にとって自然な方法で彼らの力を引き出す手伝いをすることではないでしょうか。
現在、私たちの食べ物は金儲けの道具になっており、命の食べ物というお金に置き換えられない地球からの贈り物である作物や、命の源である土を軽く見ているとニンジン農家の赤峰勝人氏は次のように述べています。
「田舎に移住したりして、自分で野菜を育てて、彼らが成長している姿を見ていると、自然の素晴らしさが実感できますよ。そして己の傲慢さと無力さを味わうと共に『循環』の中で生きる、自分も含めた命の大切さがくっきりと見えるようになるのではないでしょうか。」
「20世紀は組織の時代、21世紀は個人の時代」と文筆家のダニエル・ピンク氏が著書「フリーエージェント時代の到来」の中で述べていましたが、テクノロジーの発展によって私たちは組織にとらわれず地球の裏側で、パソコン一台で、時間や場所に縛られずに仕事ができるのです。
毎朝満員電車に揺られ通勤するサラリーマンの姿は20世紀の遺物となり、21世紀の現在ではパソコンを片手に田舎に移住し、パソコンで仕事をしつつ、その合間に農業をすることができるようになりました。「テクノロジー」と「土」という、一見、相互反発しそうな2つの要素は、実は相性が良いのかもしれません。
私たちは「効率的な大量生産」という一点だけを追った結果、土の循環が破壊され、その土でできた作物を食べるわれわれの体にも様々な害を引き起こし、自分たちの首を締めてきました。
大切なのは作物の値段や見栄えではなく、その作物がどのような土で育ったかにまで思いを馳せることなのかもしれません。
土の循環の中で育った近隣農家のオーガニック野菜などを選ぶようになれば、私たちも作物同様、医薬品やエナジードリンクなしでも力強く生きることができると実感するのではないでしょうか。