この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。
腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。
でもね、それでいいの。
こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。
若くても不自由なことはたくさんあると思います。
それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。
でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、
不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。
がんをやってから感じているのは、
医療をもって体を治すことと、考え方や生活習慣による心の状態があって、現代はこの2つがぶち切れている気がする。
西洋的な善悪に分けるのではなく、表と裏、病と健康、善悪が一つの中にある。
それが総体的にひとりの人間となって生き生きしてくるんじゃないかしらね。
病がダメで健康はいいものなんて、そんな分け方では人生つまんない・・・。
生きるのも日常、死んでいくのも日常
人は必ず死ぬというのに。
長生きを叶える技術ばかりが進歩して、
なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
死を疎むことなく、死を焦ることもなく、
ひとつひとつの欲を手放して、
身じまいをしていきたいと思うのです。
人は死ねば宇宙の塵芥。 せめて美しく輝く『塵』になりたい。
それが、私の最後の欲なのです。
どれだけ人間が生まれて、合わない環境であっても、そこで出会うものがすべて必然なんだと思って、受け取り方を変えていく。そうすると成熟していくような気がするのよね。それで死に向かっていくのだろうと思う。
嫌な話になったとしても、顔だけは笑うようにしているのよ。井戸のポンプでも、動かしていれば、そのうち水が出てくるでしょう。同じように、面白くなくても、にっこり笑っていると、だんだん嬉しい感情が湧いてくるのよ。
今日、用事があることを『今日用(きょうよう)』と言っているんだけど、神さまがお与えくださった『今日用』に向き合うことが毎日の幸せなのよね。『今日用』をこなす事が、人生を使い切ったという安堵につながるんじゃない。
死を身近で見られない今は、ちょっと不幸な時代
一般の世の中の人は、死というものを特別なものとして、そういうものを見ないように避けて通るんだなぁと思います。親しい人の死が身近に見られない今の世の中は、ちょっと不幸な時代になったのかなと。損しているなと思いますね。
死に向けて行う作業は、おわびですね。謝るのはお金がかからないから、ケチな私にピッタリなのよ。謝っちゃったら、すっきりするしね。
やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう、きっと。一人の人間が生まれてから死ぬまでの間、本当にたわいもない人生だから、大仰には考えない。
自分が生きてきたことが、人様のご迷惑にならないようにと思ってるの。生きていることによって、出すゴミがないようにね(笑)。『役目を存分に果たした』と思えるように、「人生を始末」する気持ちで毎日を過ごしてるのよ。新しいものはめったに欲しいと思わないし、家のテレビはいまだにブラウン管なんだから。
人生は最後まで使い切る
靴下でもシャツでも最後は掃除道具として、最後まで使い切る。
人間も、十分生きて自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるということだと思う。
自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末することが最終目標。
今日、用事があることを『今日用(きょうよう)』と言っているんだけど、神さまがお与えくださった『今日用』に向き合うことが毎日の幸せなのよね。
『今日用』をこなしていく事が、人生を使い切ったという安堵につながるんじゃない。
嫌な話になったとしても、顔だけは笑うようにしているのよ。
井戸のポンプでも、動かしていれば、少しの誘い水が有ると、そのうちどんどん水が出てくるでしょう。
同じように、面白くなくても、にっこり笑っていると、だんだん嬉しい感情が湧いてくるのよ。