子供時代から続いた喘息と乾癬を、食養生と入浴方法の改善だけで快癒させたお話しをさせて頂きます。
乳離れと同時に喘鳴が表れはじめる
母親の記憶では、僕は乳離れした頃から、喘鳴(喘息の初期症状)が表れるようになったそうです。
出生時は東京の目黒に住んでおり、2歳になる前に埼玉に引っ越したのですが、空気の美味しい田舎に暮らすようになっても、喘息は改善せず、幼稚園に上がるころには、発作は益々酷くなりました。
そして小学校に上がってからは、頭皮にフケが表れはじめたのですが、それはフケと勘違いされた乾癬(後述します)でした。
母親に連れられ、都内の喘息専門病院へ行くと、アレルギー性の小児喘息と診断されました。
アレルゲン(アレルギー症状を引き起こす物質)は、「カビ」と「ほこり」でした。
アレルゲン検査では示されませんでしたが、線香や花火の煙にも過剰に反応していました。
漢方薬や吸入薬と一緒に、アレルギーを改善するための減感作療法(定期的にアレルゲンを注射で少量投与し、体質改善させる療法)まで処方されましたが、それでも発作は頻繁に表れ、吸入薬は手放せませんでした。
潔癖がアレルギーの原因になった過去
愛ある母親の試行錯誤と暴走
「カビ」と「ほこり」を異常に気にするようになったのは、僕ではなく母親でした。
最愛の息子のアレルゲン検査結果がショックだった彼女は、検査後は何でも消毒するようになりました。
家の中を逆性石鹸で拭き掃除をする徹底ぶりが、かえって僕をアレルゲンに過敏にさせることになったのです。
アレルギーやアトピー症状を持つ子供の家庭は、消毒のし過ぎであるとの指摘がありますが、まさにその通りだったのです。
何をやっても改善しない僕に、母親は色々な民間療法を見つけて来ました。
その中で最も衝撃的だったのは、新聞好きの母親が記事から拾ってきた、生きたナメクジを丸飲みする荒療治でした。
自宅の風呂場にいたナメクジを飲ませようとする彼女に、僕は泣き叫んで拒否したのですが、「とにかく一度だけ」と強引に飲まされました。
そんな療法に効果があるわけもなく、二回目の丸飲みが無かったのは救いでした。
50年前の教育現場は喘息に対する理解が無かった
小児喘息は、今でこそ随分と教育現場でも理解されていますが、半世紀前となる僕の小学生時代は、喘息持ちは根性無しの代名詞のように扱われ、気合が足りないからと言う理由で無意味にしごかれて悪化したことも少なくなく、無理解な引率教師に連れられた修学旅行先のカビ臭い宿泊所で発作を起こしたときは、死を覚悟したくらいでした。
毎回、辛い思いをせねばならなかった喘息の発作は、高校に通い始めた頃から徐々に和らいだのですが、結婚して生活環境が大きく変わった22歳の時に再発し、それから自己治療に切り替える50歳前まで、改善する気配の全く無い対症療法(服用薬、外用薬、吸入薬による治療)が延々と続いたのです。
ベジタリアン
自己治療の一歩目は純菜食生活へのシフト
自己治療の第一歩は、食養生でした。
もともと、僕は動物好きの人間です。
動物の形をしたお菓子が可哀そうで食べられなかったり、理科実験の解剖目的で飼育されていた蛙を全部逃がして教師から張り手をくらった子供でした。
ですが、僕がどんなに動物を愛していても、子供が毎日の献立を決めることはできませんので、普段の食事は周囲に合わせ何でも食べていました。
特に母親は、当時のマスコミに完全に洗脳されており、喘息持ちのひ弱な息子に体力をつけさせるためにと、毎日の食事は肉食中心で、体力の無い子供に消化吸収の悪い酸性食品ばかりを与え続けたのですから、僕のアレルギー体質は悪化の一途だったのです。
そんな僕でしたが、知人からプレゼントされた「エコロジカル・ダイエット」という本を読んだことが決定的な転機となって、動物を傷付けない生き方を選んだのが、50歳を迎える数か月前でした。
最初のステップは、毎日の食事から肉、魚、乳製品、卵を排除することでした。
これだけでも、発作の回数は確実に減りましたが、アレルゲンだった「カビ」と「ほこり」、そして線香や花火の煙などに反応する体質は相変わらずでした。
レベルアップする純菜食とその背景
次のステップは主食の変更で、白米から雑穀米や分づき米、玄米へと切り替え、砂糖の摂取も止めましたが、症状の顕著な改善はなく、続いて小麦を排除するグルテンフリーにも切り替えましたが、これも大きな好転を感じることはありませんでした。
喘息は大して好転しないのに、なぜ僕は、純菜食生活を止めなかったのでしょうか。
もちろん、動物を愛しているからに他ならないのですが、それとは別に、ある驚くべき変化があったのです。
冒頭で「小学校に上がってからは、頭皮にフケが表れはじめた」と書きました。
僕のその頭皮の症状をフケと思い込んでいた母親は、生命の危機にもなりかねない喘息発作と比べたのか、フケを問題視していませんでした。
ところが結婚して生活環境が変わり、喘息が再発したのとほぼ同時期に、頭皮にあったフケ様の症状は、身体中に広がりはじめていたのです。
頭皮にあった白いカサブタは、フケなどでは無かったのです。
何件目からの皮膚科で、それが乾癬という難治性皮膚疾患であると判りました。
医師からは「乾癬に平癒は絶対に無い」とまで言われ、ステロイドの塗り薬が数種類処方されました。
塗れば症状は一時的に消えるのですが、原因が消えたワケではありませんから、翌日には再発します。
こうして改善の見込みのない対症療法が、またここで増えることになったのです。
純菜食で激減した乾癬の患部
ところが、僕が純菜食に切り替えると、そのやっかいな乾癬の症状に、大きな変化が表れたのです。
動物食を排除し、主食を変え、砂糖を止め、グルテンフリーにもなるなどと純菜食のレベルが上がるたびに、乾癬の患部が目に見えて減って行きました。
喘息の治癒には、大きな進展はなかったものの、乾癬の患部が小さくなったり、減ったりしたので、自分の食養生に自信が持てたのです。
後から判ったことですが、「乾癬」の「癬」という字は、病ダレの中に「魚(海や川の肉)」と「羊(丘の肉)」があります。
それは、動物食の弊害として表れる疾患を意味する漢字だったのです。
つまり、僕の動物愛から始まった純菜食が、「癬」の字を封印しはじめたのです。
自己治療の第二段階は減食生活
純菜食生活が落ち着いた頃、サトル・オステオパシィという手技を身に付けるために始めた減食生活によって、僕の喘息は大きな変化を見せることになります。
パニック障害を克服したときも、減食に治療効果を感じていたので、習慣的に減食に取り組めば、身体が良い反応するのではと思ったのですが、手技完成のためにBMI18を目指す必要もあったので、俄然やる気になって減食生活に突入したのでした。
減食の最初のステップでは、朝食はグリーンスムージー、昼食はスープにして、夕食は普通のボリュームの食事を摂りました。
そうすると、線香や花火の煙への過剰反応が消えたのです。
食事量を減らしたことで、お腹の鳴るシチュエーションが増え、空腹をしっかり感じる気持ち良さも気に入っていましたが、あきらかに喘息の発作の原因となる反応が減ったのですから、嬉しさも倍増です。
ついでに、乾癬の患部も頭皮だけに激減しました。
また食事量が減ったことで、胃が小さくなったのか、夕食の量も少なく済むようになりました。
水シャワー
決め手となった第三段階の自己治療、水シャワーの励行
そして同居している肌の敏感な次女が、自然な肌のケア方法を見つける中で手にした本から、僕は新しい入浴法に出会います。
これが僕の喘息にとどめを刺したのです。
それは、「塩浴生活をはじめよう!」という本でした。
この入浴法は、入浴の最後を常温の水シャワーで締めます。
この本の中における水シャワーは、適量の皮脂を皮膚に定着させることが目的でした。
経口、経皮から取り込んだ身体の毒を排泄させることで、乾癬の治療に役立つと確信して、僕は水シャワーの実践を決めたのですが、その選択が喘息体質を改善させることになったのです。
塩だけで髪もからだも洗ってしまう新習慣 塩浴生活をはじめよう!
混合水栓のシャワー設備があれば、温かいお湯の状態から徐々に水温を下げられますので、身体に負担なく水シャワーは楽しめます。
来る日も来る日も水シャワーを浴び、入浴後に身体がポカポカする現象が面白く、冬でも楽しく続けることができました。
そしてその年の冬の大掃除で、アレルゲンのはずの「ほこり」に反応しない僕に気付き、次の年の梅雨には「カビ」にも反応しなくなったことに気付いたのです。
さよなら、喘息に苦しんだ日々
こうして僕は、喘息の自己治療にも勝利したのです。
玄米菜食へ切り替え、食事量を減らし、水シャワーを毎朝浴びる、たったこれだけのことで、長かった喘息との生活を、あっさりと終わらせることができました。
もちろん、僕の治療所の利用者様で、主訴に喘息をお持ちの方には、迷わずこの方法をお勧めしています。
減食生活のもうひとつの効用、さよなら乾癬
実は、減食生活に関しては、この後さらに加速しました。
今では完全な「一日一食」生活を送っています。
これによって、医者から不治を言い渡された乾癬とも、完全に決別できたからです。
やはり食事量を減らすことは、身体の様々な問題を解決するようです。
まさに、飢え(減食生活)と寒さ(水シャワー)が生命を蘇生させることを、僕は自分の身体で証明したのでした。