病気という存在には様々な原因があり、それを解決するのは一筋縄ではいかないことが多い。
食事療法で改善するものなど、素人がやって解決するのと大差はない。
実際に現場に立ち診療でも講演でも専門家の前でも、それに答えようとするならいろんな知識が要求され、かつ柔軟な考え方が求められている。
それはあたかも探偵が問題を読み解くかのようだ。
残った物証や周囲の状況、人の心理、時間の流れ、それらを組み合わせる論理などを用いて、病気を読み解いていく必要がある。
それはより複雑だったり長い経過をたどる病気であればあるほどそうだ。
医者は推理をしてその道筋をたどり、問題を解決するために何が必要かを探る。
しかしその問題を直接解決できるのはやはり探偵ではなく、同じく医者ではない。
医者が仮に推理を働かせたとしても、それを採用するかどうかは警察官によって異なるであろう。
それ以上に容疑者は逃げてしまうかもしれないし、被害者はその推理を受け入れないかもしれない。
被害者や警察が常に真実を求めているとは限らず、真実だと思っていることの中にすでに願望が入り込んだりしている。
証言が最初から嘘であることもあろう。
探偵という職業を真面目にやれば、世の中の醜さにほとほとあきれて諦めがつくと聞いたことがある。
これは医者が教科書に従わず、教科書が?であることを知った時に始まり、患者や患者家族や民衆にそのことを伝えようとしたときに終わる。
人の生死や人生に直結する医者の仕事は、推理というだけでなくこの点においても非常に探偵に似ていると言える。
人間の本性を知り人間の愚かさを知り人間の嘘を知り、虚無となり生きていけばいくほど、人間に期待することなど一つもなくなっていく。
そして探偵が世の中を変えたり犯罪をなくすことができないように、医者が患者を治したり医学界を変えることはできない。
名探偵と名医とは解決が優れている人たちではなく、見えて困る人たちなのだと改めて思う次第だ。