料理研究家の土井善晴さんが提案する「一汁一菜」という食のあり方には、食生活の提案に止まらない、人間形成のための哲学が流れています。
一人でも生活していても正しい形で食事を作る。
そこには健康のためだけではない、大きな意味がある。
一汁一菜とは、ご飯、味噌汁、漬物という食事の型のこと。
それは、単なる時短料理ではなく、私たちの体を喜ばせ、生活を豊かにする食のあり方なのだと土井さんは言います。
理想的な食事の型は一汁三菜と思い込み、「ちゃんとした食事ができていない」と日々ストレスを感じている人は多いでしょう。
日本人の3分の2は、「今の食事を続けていたら将来の健康に不安がある」と考えているというアンケート結果を見たことがあります。
その状況は今もあまり変わっていないのではないでしょうか。
でも健康が不安と思っているのに、食に無神経な人が多い。ファストフードが大好きな人もいます。
メディアで話題の食情報を追う人もいるでしょう。
大切なのは、人間一人が、個として食べる力、生きていく力として料理を捉えること。
何を信じるかは、個人の問題ですが、自分の食に責任を持たなくてはいけない。
人は誰もが心身共に健康でありたいと思っているでしょう。
そうした中で、私が信じることができる食のあり方が「一汁一菜でよいという提案」です。
一汁一菜とは、ご飯を中心とした汁と菜(おかず)。
その原点を「ご飯、味噌汁、漬物」つまり、「汁飯香」とする食事の型です。
「一汁一菜でよい」とすれば、誰でも毎日食事を作ることができます。
ただし、単なる時短や手抜きといった、表面を繕うようなところに一汁一菜があるのではありません。
一汁一菜にすることで、健康や生活のリズムに無理が出ず、暮らしやすくなるのです。
働いていれば、スーパーマーケットに買い物に行く時間だってそう取れないでしょう。
でも、一汁一菜であれば、冷蔵庫にあるもので済ませればいい。
家にあるものを、味噌汁に入れればいいんです。
賞味期限が切れそうな卵を入れたって、野菜の切れ端を入れたっていい。
それだけで普通においしい。
味噌汁を作るようになれば、食材の無駄を減らすことができます。
私たちの生活の起点となるのは、「お天道様」です。私たち人間は自然の一部です。
ですから、お天道様を起点とするのは、非常に「合理的」な考え方です。
これは、「機能的」とは違います。
機能性はどこかにひずみがきますが、合理性は私たちの情緒ともとてもうまくかみ合う。
そして、情緒と現実がうまく重なり合うところに違和感のない、人間の生活の秩序を作るものが生まれてくる。
その一つが一汁一菜なのです。
日本には3000年の稲作の歴史があり、味噌には1200年の歴史がある。
稲作は日本の文化を豊かにし、暮らしの中心となってきました。
味噌は「アスペルギルス・オリゼ」という、日本だけにあるこうじ菌から造られる調味料です。
そうした伝統的なものを信じたらいいのではないでしょうか。
食と健康の世界では、どんどん新しい情報が出てきますが、しばらくたつとその知見は間違っていたとか、その薬は駄目だったという話が出てくる。
一方で、20年前は栄養評価などなかったナスやタケノコといった食材が、実は体にいいというようなことをいわれるようになる。
こうした手のひら返しはしょっちゅう起こっています。
新しい食と健康の情報というものは、経済と関わるところが大きい。
企業がPRのために情報を発信することもあります。
そうした世の中で、自分が何を信じるか。それが大切なのです。
朝日が昇る、夕日が沈む光景に人が感動する。
自然と交わるところにはおのずと湧き出るような感動があります。
果たして人工的なものにそこまで人を幸せにしてくれるものがあるでしょうか。
何を食べるべきかは、自分の想像力を働かせて考えなくてはいけません。
汁飯香は飽きない。
ずっと続けられる食事です。
朝食にもなり夕食にもなる。
自然物であるから飽きない。
毎日食べても、「ああおいしい」と言える食べ物なのです。
味噌汁は塩分の取り過ぎだという人がいまだにいますが、それは時代遅れの考え方です。
味噌には強い利尿作用があり、必要量以外の塩は体外に排出されるのです。
味噌が血圧を上げて健康を害するということもいわれましたが、実は血圧を安定させる働きを持つということも最近分かってきました。
味噌は、桃の花が咲く春に仕込んで、夏の暑い時期を常温で越し、12月になるとようやくいい匂いがしてきます。
それだけ保管しておかなければいけないということはコストがかかるわけです。
値段が安い味噌は、1日でも早く出荷するために、まだ味噌とはいえない状態で出荷する。
調味料を添加して出荷するわけです。
それは「自然物」といえるのでしょうか。
選ぶときは、伝統的な製法で造られた味噌を選ぶという想像力を持ってほしいと思います。
ご飯の炊き方も最近は変わってしまいました。
ブランド米においしさを求めながらも、タイマー付き炊飯器で炊いていませんか。
水気で雑菌は急速に増殖しますから、水に漬け置きしたお米がおいしいわけがない。
一番おいしくご飯を炊く方法として日本人がずっとやってきたのは、お米を研いでぬかを落とし、ざるに上げて、夏場なら30分、冬場なら1時間、だいたい40分ぐらい置いておくこと。
そうしたお米をきれいな水で炊いたら、古米でもおいしく炊けます。
炊飯器も早炊きモードでいいんです。
ざるに上げるのも、今より1時間早く起きなきゃいけないと気張らず、前日に洗ってざるに上げたらすぐにポリ袋に移して冷蔵庫に入れればいいんです。
その洗った米を翌朝炊く時間がなかったら、夜炊いてもおいしく食べられます。
ちゃんとした手順で炊いたご飯は雑菌の数が全然違う。
傷みにくいですから、熱々のうちに握っておむすびを作ったら、暑い季節でも長い時間持ちます。
私も、新幹線に乗るときなどは熱々のご飯で握ったおむすびをそのまま籠に入れ、蓋をして持っていきます。
舌先を喜ばせてくれる焼肉やらおすしやらは、快楽的な食べ物です。
脳を喜ばせてくれるかもしれないけれど、食べた後に、「体がきれいになったような気がする」と感じる食べ物とは違います。
もぎたてのリンゴであったり、旬の野菜であったり、びっくりするような大きい声でみんなが「おいしい!」と言わないような食べ物の中にこそ、心地よい食べ物、毎日普通においしい食べ物が潜んでいる。
感じるのは脳ではなく、私たちの体の細胞です。
体には37兆個もの細胞があります。
そのすべての細胞が喜ぶ。
体が気持ちよいということは、すべての細胞が喜んでいることだろうと想像するわけです。
舌先で味わうものではなく、自分が食べてから排出するまで全部が心地よい、それを体で感じながら味わうことが毎日の食事ではないでしょうか。
女性はそうした感覚を理解しやすい。
それは、女性が命と近い関係にあるからでしょう。
家庭を持ったとき、子どもができたときに、女性はお料理を頑張らなければと思う。
なぜそう思うのか。
現代社会にあふれている人工的なものを信じるなら、お料理なぞ頑張らず、子どもはすべて人工的な食事で育てたらいい。
でも、「それではいけない」と女性は思う。
自分の中に残る自然がそうした気持ちにさせるのです。
一方、日本人は自然信仰だというけれど、今の社会ではその自然を大切にしません。
科学的に説明できないものを価値がないように思い、素直に心が動かせなくなっている。
それが、暮らしにまで影響しています。
その証拠に、日本人は美意識が高いというけれど、「きれいなもの」が少しずつ周りからなくなっています。
例えば、プラスチックのパックに入っている豆腐。
豆腐店にあるような、角が落ちている豆腐とは違います。
角が落ちていてもいい、という感覚がなくなっている。悲しいことです。
きれいなものは安心なものです。
しかし現代では、自分がきれいと思っているものを、まず疑ってみなくてはいけません。
「姿がいい人」という表現があります。
これは、人の表面的な美しさだけを指すのではありません。
その人の内面すべてを指しているのです。
「美しい人」と言われたらうれしいかもしれないけれど、「姿がいい人」「きれいな人」のほうが大切かもしれない。
きれいな人は、言葉遣い、振る舞いも美しい。
日本語では、「きれい」という言葉を使って、きれいな仕事をする、きれい(清潔)にしておきなさいという表現もします。
真善美という人間にとって本当に大切なことを一言で表現するのが「きれい」という日本語のすごいところ。
きれいであることは嘘偽りがないということで、それをよりどころにするのが、本来の日本の文化なのです。
人が作った食事には、その背景にあるもの、作り手がどんな気持ちで作ったかが出てきます。
食事とは、ただ料理を食べることではありません。
ちゃんと自炊して正しい形で食べられたら、自分の生活に自信が持てるのです。
だから、「作る」ということに重心を置くことがとても大切で、一人で生活している人でも食事を作ることに意味があるのです。
一人暮らしの人が母親と電話して、「ちゃんと食べてる」と聞かれたとき、「うん、味噌汁ぐらいだけどね。
それ以上はなかなか作れないけど」と伝えたら、お母さんは間違いなく安心するでしょう。
お母さんが安心するようだったら、自分に自信が生まれる。
逆に安心がないところに自信はありません。
子どもが家に帰ってもお母さんがご飯を作ってくれない。
ちょっと外でご飯を食べておいでと言われたら、自分の居場所がどこにあるか分からなくなります。
そうした子どもが現実にいるわけです。
同じように、一人暮らしであっても、親が安心するような、自分の居場所を作ることが大切です。
自分の居場所があるということで、初めて安心して社会との接点が持てる。
一汁一菜という食事を作ることで、そうした安心が生まれるのです。
一汁三菜という食のあり方がいいのだと、世の中も、栄養士も言い続けてきました。
皆さんのお母さんも、一汁三菜という食の型を信じてきたことでしょう。
テーブルの上にいっぱい料理を並べる母の姿を見てきたから、頭に刷り込まれたそれが「できない」と、今の人たちは苦しんでいます。
でも、一汁三菜は世の中が今と違って、お母さんたちがたくさん料理を作れる時代にやっていたこと。
できないならやらなくていいのです。
高度経済成長期に貧しいところから立ち上がろうとする中、日本人にはごちそうに対する憧れがありました。
だからたくさんの料理を作るのがよしとされた。
それがここにきて破綻しているのです。
できないことをやろうとするほど大変なことはありません。
一汁三菜ではなく、一汁一菜でいい。
それを丁寧にやったら、自分の幸せの土台になるんじゃないかと思います。
一汁一菜によって時間に余裕ができたら、例えばお菓子が好きな人は、シュークリームを手作りするとか、普段できないようなことをすることに意味がある。
生きるための食事は一汁一菜でよくて、自分の好きなものは、大いに手間をかけて作ったらいいんです。
つまり、一汁一菜というのは、手抜きをするということではないんです。
その意味が分かると継続力も生まれます。
また、私は本を書いているときなどは、本当に一汁一菜が最高の食事になります。
食べ過ぎたら仕事になりません。
そもそも食べ過ぎると、免疫力が落ち、暑い季節でも風邪を引きやすく病気になりやすくなる。
食べ過ぎないことは、いいコンディションを自ら作るということでもあるのです。
味噌汁を作るのに、だしを取らなきゃいけないというのも「神話」です。
本当に、誰がそんなことを言い出したのか。
少しの煮干しでだしを取っていた人が、隣の奥さんからカツオ節と昆布のだしがおいしいよね、カツオ節はあそこの店のものがおいしいよね、などと言われたりする。
何のだしがいいかという話はそんなに重要でしょうか。
煮干しだけでも立派なだしが出る。
煮干しを入れたらカルシウムが取れるので、私はよく使いますよ。
でも煮干しがなくたって野菜を煮るだけで、それでいろんなものから味が出てきます。
そもそも、味噌には微生物が産生するうまみ、栄養、ミネラルがたくさん入っています。
しょうゆをお湯に入れたからといって「しょうゆ汁」とは言いませんが、味噌はお湯で溶くだけで味噌汁になる。
それは味噌そのものに意味があるということです。
「医者に金を払うよりも、味噌屋に払え」という江戸時代のことわざがあります。
徳川家康は、ぜいたくな食事よりも具だくさんの味噌汁を奨励しました。
ぜいたくは月2回ぐらいでいい、そんな話をしています。
家康はそれで75歳という長寿を全うした。
ぜいたくも毎日していたら飽きます。
飽きているから、次々と新しいレシピをあさったり、外国の新しい料理や流行を追ったりする。
よくよく考えたら、それは楽しくないのではないかと思います。
よく大阪人はケチだといいますが、日ごろつましくしているからこそ、ぜいたくを楽しむことを知っている。
「贅(ぜい)」と「貧(ひん)」のバランスが生活にあるのです。
お酒だって、昼から飲むより、ちょっと我慢して仕事が終わってから飲んだほうがおいしいように、日ごろつましくしているからこそ、ごちそうを食べるときに意味があるのです。
毎日飽きない汁飯香を食べる。
そうした、日ごろのつましい生活があるから、ある秋の日には、「サンマが出たからサンマを買って焼こう」と思う。
おいしさを知っているから楽しみになるのだけれど、毎日サンマを食べたら飽きるでしょう。
汁飯香の生活があるから、楽しみを自分の力で発見できるようになる。
本当の楽しみが分かるようになるのです。
一番基本になるものさえ知っていたら料理なんて習わなくていいし、覚えようとして大変だなんて思う心配さえありません。
ご飯と味噌汁でいい。
食べ物には、誰でも作れるものがあるということなのです。
それは日本だけじゃなくて、世界中どの国でもあります。
味噌汁の具は、なんだっていい。
唐揚げを入れたっていいでしょう。
私が今朝食べたのは、トウガンの味噌汁にカマンベールチーズを入れたものでした。
すごくおいしいです。
味噌汁は、自由自在に体が喜ぶものができるんです。
多くの人は味噌汁に固定観念を持っています。
ワカメだけとか豆腐がいいとか、ジャガイモとタマネギが好きだとか。
みんな何かしら好みを持っているわけですが、それ以外にもいっぱいおいしいものがある。
味噌汁だけでなく、料理は固定観念にとらわれがちです。
ハンバーグを焼くとなったら、ニンジンのグラッセを作ってジャガイモを添えなきゃいけないとか考えるわけです。
そうじゃなくて、野菜は味噌汁に入れておいて、ハンバーグはそれだけ焼けばいい。
昔の人のほうがもっと自由に食べていたと思います。
想像を働かせればいいのです。
一人で食事するときは、お膳があるといいですね。
これがあると自分とお膳の付き合いができます。
お膳は器の舞台なので、お椀とかお茶碗とかの付き合いも出てきますから、とても豊かな暮らしの相棒ができます。
ヨーロッパではあんなに文化が発展して、技巧的なものに対する評価があるのに、「この器いいな」と言いながら食べるという文化はありません。
使う道具の美しさに目に留めるというのは、日本人の重要な美意識でしょう。
お膳があると、この美意識を生活に取り入れることができます。
お茶碗を売っているような食器屋さんに行ったり、旅先でお茶碗を一つ自分のために買ったりする。
買うときには、鏡の前でお茶碗を持ってみて、自分に似合うかどうか確かめてみるといいでしょう。
いくらいいものでも、自分に似合わないものを買ったら不細工ですから。
そして、いい器を買ったら、「この器が似合うような自分になりたい」と思うようになります。器は人を磨くのです。
人間を磨くというと、たくさん本を読むとか、冒険をするとか、結構プレッシャーのかかる大変なことをしなくてはいけないように思っているかもしれません。
でも、一汁一菜という、ごくささいな日常が人間を磨く。
小さなことに感動できる自分をつくる要素がいっぱいあって、人間の幸福力というようなものを高めてくれる。
一汁一菜とすることで、毎日のように発見が生まれます。
私自身、「一汁一菜でよいという提案」という本を書いてから、自分で発見することがたくさんありました。
やっと料理が分かってきたな……本当にそんな感じですね。本当に深いものがあるのです。
結果ではなく、幸せはプロセスという時間の中にあるのです。