道に迷った時は、損得勘定じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。
自暴自棄にはならないこと。
希望が消えてなくなる前に、残された時間に最善を尽くすこと。
品位をもって、勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。
どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
1・ あとは全部こっちで用意するから、お前はお前の中にあるやつを全部出せ。
神と直接交信ができる訳ではないけれど、稀に、神的なものの声を聞くことがある。
神という言葉に違和感を覚える場合は、それを「自然」とか「内なる声」などに置き換えてもいい。
最近の私は、神的なものから「あとは全部こっちで用意するから、お前はお前の中にあるやつを全部出せ」と言われている気がする。
生活のあらゆることは一切無視をしてもいい、これからどうなるかなどといったことは全部こっちで用意をするから、お前はお前のなかにあるやつを全部出せ。そんなことを言われているような気がする。
2・神の世界ではなんでも叶う。それじゃ愛を実感できないから、この世界に来た。
神的な世界では「思ったことが瞬時に実現する」世界であると聞いた。
そんな世界では何かを成し遂げるよろこびであるとか、それを成し遂げるまでの心の葛藤や愛の喜びみたいなものを感じることができないからと、ある程度不完全な状態で放り込まれた世界が「地球【いまいる世界】」であるのだと、そういう話を聞いた。
諸々の出来事で四苦八苦をすることは多いけれど、それもこれも「それらを経験するために生きている」のだと、そのような話を聞いた。
3・神であることを思い出したらゴール。
そんな世界では「自分は神である」ことを思い出したらゴールになる。多分、これは誰にでもある瞬間だと思うけれど、生きていると「あれ、いま、俺は何かを悟っちゃったかもしれない」とか「あれ、いま、俺は世界の秘密を知ってしまったかもしれない」なんて思う瞬間がある。
多分、その瞬間、そのひとは神的なものに触れているのだと思う。
だが、悲しいかな、24時間常に神的なものに触れ続けていることはできない(神であり続けることはできない)から、再び『ぶれ続ける人間』に戻る。
4・呼吸。
天から降り注ぐエネルギーを体内に取り込むイメージで、鼻から大きく息を吸う。
その後、吸い込んだ息を(自分の中にある悪い気を放出するような感覚で)天に吐き還す。
その後、大地から湧き上がるエネルギーを体内に取り込むイメージで、鼻から大きく息を吸う。
その後、吸い込んだ息を(自分の中にある悪い気を放出するような感覚で)大地に吐き還す。
ある程度繰り返すことで、自分の中に「スッ」とした(天地と繋がる的な)一本の芯を通す。
5・余剰物を削ぎ落とす。
コンクリートに囲まれた中でもこの呼吸法は有効なのかもしれないが、私のような弱者はある程度の自然に囲まれた中でやらないと、なかなか集中をする(効果を発揮する)ことができない。
都会の生活が長く続くと、情報にまみれた日々を長く過ごすと、自分の中に『余剰物』がたまる。
荷物みたいなもの、重荷になるもの、ゴミみたいなもの。
自分の中にある余剰なものを削ぎ落とす、葬り去るための儀式的な時間が必要になる。
6・横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを。
横【ひと】との繋がりだけを求めると、どうしたって辛くなる。
さみしさなどの感情は、誰かに何かを埋めてもらいたい(誰かに何かを埋めてもらえない)と感じる時に生まれる感情なのかもしれない。
ひとの感情は流れさるものであり、移りゆくものだ。
横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを取り戻すことができる場所や時間や空間を持つこと。
私の場合、それが熱海市にある神社であったり、新潟市にある海辺の空き地や夕日を眺めることができるスポットになるのかもしれない。
この場所があれば何度でもやり直せると、自分にとっての「おっさん岩(井上雄彦『バガボンド』参照)」的な場所を持つということ。
7・月が太陽になり、太陽が月になる。
いままで通用していたものが、これから通用をしなくなるような時代が来る。
そういう予感めいたものを感じる瞬間がある。
それは世の中の常識とされているものがひっくり返るような瞬間の到来。
月が太陽になり、太陽が月になるような瞬間の到来。
強いものが弱いものになる瞬間の到来と、弱いものが強いものになるような瞬間の到来。
表側が裏側になる瞬間の到来と、裏側が表側になる瞬間の到来。
8・水になれ。
無用の用という言葉がある。
コップなどの器は、その空白【なにもない】部分があるからこそ、そこに水をいれることができる。
部屋などの空間は、その空白【なにもない】部分があるからこそ、家具を置いたりひとが横になるスペースを生むことができる。
なにかがあるからではない、なにもないことの中で真髄を発揮するもの。
頭をからっぽにするということ。
かたちを持たない水のように、何者でもないからこそ、何者にでもなることができる。
9・生きとし生けるものはすべてたおやかである。硬直したものは砕けやすく、力強いものは必ず転げ落ちる。
ブルースリーは恩師から「生きとし生けるものはすべてたおやかである。
硬直したものは砕けやすく、力強いものは必ず転げ落ちる」という教えを繰り返し受ける。
カンフーの目的は『欲望や執着から自分を解き放ち、心と体の調和を手にすること』にあると聞く。
そしてまた「この道を志すものは己を慎まなければならない。
地位や名声は武闘家にとって意味をもたない。
地位を失う恐怖心を抱かざるをえなくなるからだ」とも言われている。
これはなにも、カンフーに限った話ではないのだと思う。
俺が俺がとなるほどに、自分自身にとらわれていく。
とらわれた心は固くなり、とらわれた心は重くなる。
「重い」部分を軽くするもの。
自分の中にある「硬い」部分を柔らかくするもの。
軽く、軽く、軽く、柔軟であるということ。
10・俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させるんだ。
岩手県で「けいご」という私と同じ名前の3歳の男子と出会った。
名前が同じだからなのだろうか、強い共感を覚えて(非常に短い滞在時間だったけれど)仲良くなった。
けいごにはお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんはけいごにやさしくもするけれど厳しい言葉もど直球に浴びせる。
けいごが邪魔な時は「けいご邪魔、どっかいって!」と言い、場合によっては「けいごなんていらない!けいごなんていなくなればいいのに!」と声を荒げる。
その度にけいごは泣き、そしてまた、時間が流れると再びおねえちゃんのもとに(何もかも忘れてしまったかのように満面の笑顔で)足を向ける。
お寺の境内をとぼとぼと1人で歩く小さなけいごを眺めながら、ふと、お前は愛されているという言葉が脳裏をよぎった。
これは決して、私【坂爪圭吾】という人間個人が小さなけいごに対して抱いた感情なんかではない、なにかこう、天から降り注ぐ『親愛に滿ち溢れた声』とでも言えばいいのだろうか、神的なものはどのような時でもお前を見守っているのだと、周囲の人々はどうであれ、どのような時でもお前は愛されているのだと、お前は守られているのだと、だからなにも恐れることはないのだと、そういうことを(小さなけいごに対しても、自分自身に対しても)感じた瞬間があった。
生きているといろいろなことがある。
いろいろな気持ちにもなるだろうし、自分が自分であるということに押し潰されそうになることもあるだろう。
それでもなお、俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させろ。
小さなけいごと過ごした時間に湧き出した感情は、そのまま、自分自身に向けられた光となってあたたかに包んだ。
お前は愛されている。
お前は守られている。
その声を、神の御加護を胸に進め。
この瞬間に湧き出した想いは、願いは、祈りは、多分、こんな簡単な言葉でまとめることができるのだと思う。