諸君は今まで、幾多の人間に接してみられておそらく経験があるであろう。
なんとなく親しまれる感じのする人間、なんとなく近寄りがたき気高さの感じを持った人間、同じく近寄りがたいのでも、なんとなく棘のある感じがして近寄りがたい人間、狡猾(ずる)そうな感じがして近寄りがたい人間、こせこせした低卑な感じのする人間、豊かな感じのする人間、そのほかいろいろな人間がこの世に存在することを経験せられたであろう。
人間の感じ なんとなくその人に付きまとっている空気 明るいとか暗いとか温かいとか冷たいとかいうようなその人特有の空気というようなものは一体どこから来るのであろうか。
それはその人の全人格(表面の自覚に現れている心だけではなく、全体の心、傾向の心、習慣の心)から来るのである。
およそこの世に立って大事をなそうとする者は、この全人格から不思議に立ち上る空気が相手を掴むようにならなければならないのである。
諸君はつくり声や、お追従や表面だけの笑顔で相手の歓心を買おうと思っても、それでは本当に相手の心を大きくつかむことはできないのである。
「自覚の心」の奥底に隠れているところの、相手の「全体の心」は決してそれだけでは引きつけられはしないのである。
媚や追従やごまかしや、卑怯な態度で歓心を買おうとする試みが、度重なれば度重なるほど、その人の「全体の心」はそういう歪んだ傾向を持つことになり、その人の全人格から立ち上る空気は、なんとなく卑劣なズルい野卑な感じを持つようになるのである。
諸君よ、人格こそ本当の仕事をするのである。
その人の「全体の心」が、そのあるとおりの、印象以外のものを相手の人々に与えうると思うな。
それはあんまり虫が良すぎる。
今だけ正直そうな顔をしていても、常に不正直な人格からは不正直な空気が立ちのぼる。
相手の「表面の心」はその人の一時のごまかしを真に受けるかもしれないが、その人の全人格から来る印象は、その人の真価を暴露して決してあやまつことはないのである。
実際、思想も人格もコトバ(波動的存在)であるから、それはエーテル波(光やラジオの波)のように放射して、それ自身がなんであるかを無言のコトバで語るのである。
竪琴は竪琴の音を出すほかはないし、ピアノはピアノの音を出すほかはない。
そして破れ三味線は破れ三味線の音を出すほかはないのである。
善き音を出すには、自分自身から出るリズムを浄めなければならないのである。
いったいわれわれは、自分自身をあまりに大切にしなさすぎはしないか。
自分自身を汚くあるいは小さくしておきながら、ひとに対して綺麗に、あるいは大きく見せようと努力するのは、ひとに良い感じを与えさえすれば、自分自身の本質は、本当に汚くても小さくてもよいという慈悲心ででもあるのだろうか。
本質を善くすること、本質を偉大にすること、そこから放射される波動によっておのずから周囲から集まってくる行為や物質や、そうしたものに養われるのが本来の姿であるべきだ。
相手がどんな風に自分のことを思っているか、彼が敵か味方であるかは、彼の全人格から放射されてくる感じで分かるものである。
彼がたとい蝶々として愉快なご機嫌取りの言葉で騒がしく喋るとも、彼が反感や敵意を持っているときには言葉と言葉の間で分かるのである。
相手が言葉を発している間は、言葉の波動で彼の「全人」から来る感じをかき乱しているので、一時は彼の「全人」がなんであるかがわからないこともあろうが、彼が言葉をやめるとき、そこにはただ彼の「全人」から放射される感じだけが偽りなく受け取れるのである。
だから自分の「全人」を相手の前で隠している人は、沈黙を非常に恐れるものである。
相手に対する悪意や敵意を押し隠している人は、もちろんこの沈黙を恐れるし、恋する人がその恋愛を隠している場合やすべて心に秘密を持っている場合には、この沈黙を非常に恐れるのである。
多大に沈黙のうちに温かい愛情の言葉を心で交わせうる人々こそ、本当に何事も押し隠していない「全人」を打ち明けた人々であるのだ。
しかし沈黙の恐怖が起こるのは、必ずしもその人の「全人」が卑しい場合ではない。
それはただその「全人」を見破られたくない場合に起こるのであるが、それよりも、もっと悪いのは、全人が完全に醜悪であり低卑である場合にその人から放射される醜悪な低卑な感じである。
よく人は「あいつの顔を見ると、とても堪らぬ。
ムシズが走るような気がする」とある人のことを批評することがあるのがそれである。
それでいてその人だって全力を出して自分の好印象を相手に与えようとしているのである。
諸君よ、われらは顔を見るだけでムシズの走る感じのするような種類の人間にはなりたくないものである。
そのアベコベに、どんなにしていてさえもなんとなしに親しめる、心の許せる、信頼できる「全人」となろうではないか。
家庭においても、会社においても、工場においても、いやしくもわれわれが社会人として人に接触する場合には、この「全人」からたちのぼる空気、「全人」としての見えない思想の放散が大いなる仕事をするのである。
就職難だとか冗員淘汰だとか言っても、この「全人」から明るい、信頼できる、親しめる、自信の強い空気を放散する場合には、世に処して決して恐るるところはないのである。
諸君はたった一日の間にでも、他に対して嫌悪の感を幾たび持ったであろうか。
諸君はいくたび他人に怒ったであろうか。
諸君はいくたび他人に対して眉をひそめたであろうか。
諸君がもし毎日これらのことをしなければ幸いである。
諸君はきっとあたたかい空気を、自分の「全人」から発散させているに相違ないのである。
ああ諸君よ、他の悪にとらわれるな。
諸君は自分を築かねばならぬ。
諸君は自分を浄めねばならぬ。
たとい他が自分に対して憎むべきことをしようとも、諸君はその人を憎むよりも大切なことをしなければならぬのだ。
それは自分の「全人」を築くということである。
自分の「全人」から奏で出ずる波動を傑作とすることである。
自分の「全人」の奏で出ずる調律を、「愛と調和」と題する善き曲調(しらべ)にすることである。
自分の「全人」をして「憂鬱の音楽」を奏でしめるな。
自分の「全人」をして「憎悪と嫌悪」の曲を奏せしめるな。
自分の「全人」をして「不景気の歌」を歌わしめるな。
かくのごとき不快な調律が、ある人の「全人」から放送されるということは、宇宙の波動にどんなに面白くない影響を与えているかということを知らねばならぬ。
手近なところで、その人の周囲を常に間断なく不快にしつつあるのである。
その人の周囲を絶えず憂鬱にしつつあるのである。
その人の周囲を絶えず不景気にしつつあるのである。
かくのごとき人物の周囲の空気の中では、希望の芽は萎縮してしまい、ユーモアは逃げてしまい、歓びは窒息してしまう。
もしわれらが、かくのごとき人物の放散する空気の中でのみ、永遠に生活しなければならないのだったら、われらはとても耐えることが出来ないだろう。
おそらく何びとも、かくのごとき人物が自分の面前から裾を払って去ってしまった後の清々しさを考えずにはいられないであろう。
人は互いに自己から放散する「全人」のリズムをその接する相手に波及して、その波動が互いに共鳴するものに好感を感じあうのである。
なんとなく互いに虫が好くというのは、そうした全人のリズムとリズムが共鳴するからである。
聖人はすべての人類に好感を感ずるかというと、なかなかそうはゆかない。
聖人の「全人」より発する高貴のリズムは、相手の「全人」より発する低卑のリズムに共感することはできない。
そこには聖人の高貴のリズムが、相手の低卑のリズムを高貴に化そうとする戦いが始まるのである。
この戦いは、愛の戦いである。
それは低卑なるものを上に引き上げるための愛の戦いである。
しかし聖人にとっては、相手の「全人」より放散する低卑なるリズムを感じが良いと思って愛するのではないのである。
その低卑なるリズムを好まざるがゆえに、高貴なるリズムに同化しようとするのである。
これを音楽に例えるならば、音楽の名人は調子の狂った音楽に好感を感ずることはできないであろう。
彼が名人であればあるほど、欠点には敏感で相手の音楽の欠点が耐えられないほどに聞きづらい。
しかし彼が弟子の下手な調子を治してやろうとするのは、弟子の奏でる諧調をいっそう美しいものにしたいという弟子に対する愛によって、しばらく弟子の弾く音楽の不調子をしのびながらもその調子の欠点を直してやるのである。
そのうちにリズムの同化作用が行われる。これが人格の感化というものである。
強き愛の人格のリズムはついには周囲の人々を化して、周囲の人々の「全人」から放散するリズムを平和と愛に化してしまう。
しかし弱き善き人格は周囲の人々の「全人」より放散する悪しきリズムに化されてしまうものである。
周囲の人々の憎しみに取り巻かれつつ愛を心から感ずることが難しいのはそのためである。
「人類愛」などと想像の上ではずいぶん善いことを考えていながらも、実物の個人個人に出会ってみると、想像したほどに愛することが出来ないばかりか、嫌悪の念さえ感ずるというような矛盾に出くわす場合がある。
これはひっきょう、相手の「全人」から放散するリズムが、自分自身のリズムとぴったり調子が合わないばかりか、自分の心のリズムをかき乱してさえしまうからである。
われわれはかくのごとき人々に出会っても意識的には努めて調子を合わそうとするであろうが、隠れたる全人的意識が相手に対して魂を閉じてしまうのである。
誰に会っても相手が嫌悪を催すような人、そういう人には我々はなりたくないものである。
これに反してある人々は、まるで春の陽気を持ってくるような感じを持っている。
その人が近づいてくると、なんとなく気持ちがゆったりして気が軽くなり、少しも屈託がなくなってまるで別人のように自分がなってしまうのである。
そんな人が会社に一人でもいれば、全員の気分が明るくなって仕事の能率が上がるのである。
またそんな人が外交に出れば必ずその交渉に成功するであろう。
またそんな人から雇ってくれと頼まれれば、誰でもきっと雇いたくなるであろう。
われらは是非こうしたリズムを自己の「全人」から放散する人物になろうと努むべきである。
我々がもしかくのごとき明るい平和な人懐っこい落ち着いた朗らかなリズムを、自己の「全人」から放散するところの人となろうと思うならば、我々は常に努力して、自己の心を明るく平和に朗らかに保つとともに、憎しみや怒りや疑いや恐怖のリズムを心の琴線の上で決して奏でぬようにしなければならぬのである。
心のリズムは習慣性を持っている。
ことに我々の「表面の心」の奥底に隠れているところの「傾向の心」は、特に習慣によって常に一定のリズムを奏でつつ、それを相手に対するなんとなき人格の匂いとして放散しつつあるのである。
この「習慣の心」をして健康を放射せしめよ。
平和を放散せしめよ。
調和を放射せしめよ。
もしかくのごとき人が病人に近寄るならば、病人は不思議にただ近寄るだけでも、軽快する例があるのである。
およそ全人格の匂いとは、その人がこれまで常にもっとも頻繁に思ったり考えたり感じたりしているところのリズムが、その人の奥底の全体の心の傾きになってしまったものである。
その人が無言でいても、全人格がその人独特のリズムを奏でるのである。
もしあなたが常に狐疑逡巡し失望落胆と自己侮蔑とを心の習慣にしているならば、あなたから放散するところの「全人」の匂いは暗き失意落胆の沈衰したリズムを奏でるに相違ないのである。
他の人の信用と助力とを必要とするときに、こうした沈衰した「全人」のリズムを奏で出ずるならば、誰が信用してその人を助けるであろうか。
だから常に心を明るく積極的にし、自己を尊び、自己を信じ、常に「全体の心」の調子をして、強い自信のリズムを放散するようにしなければならないのである。
「全人」の匂いはかくのごとく偽ることはできない。
これはその時、別に何事を考えずとも何事を言わずとも、その人の「全体の心」から放散するところの旋律である。
が、その時その人が特に心を集中して思うことや、言葉に出して言うことはまた非常な力をもっているのである。
誰でも周囲の人々から常に、なんじは不正直だと疑いの目をもって見ていられるか、言葉でお前は不正直だと言われるならば、本当にその人は不正直になってしまうのである。
思想は種子(たね)である。
間断なくその人の人格へ向けてまかれたる種は、ついにそこに根を下ろし、芽を出し、やがて現実の芽を結ぶのである。
だから諸君よ、人間を疑うな。
疑っていた通りにその人がなったとて、それは諸君に先見の明があったためではないのだ。
諸君の飛ばした疑いというバイ菌が、その人に付着して繁殖したので、罪はかえってあなたにある場合が多いということを知らねばならぬ。
人間は神性をもつ。
神聖なる人間の心を疑うものは神に向かって罪を犯すものだ。
諸君は人間の心の扉を開いて、その中の神性を追い出し、疑いや盗賊の像を祭りこむ権利は少しもないのである。
諸君は人間を剣で刺し殺したことがないからとて、疑いで相手の人間の神性を刺し殺したら、なおいっそう重大な罪を犯すものであることを知らねばならぬ。
だから諸君よ。
常に深切な心、愛の心、寛大な心をもってあらゆる人間に対して敬愛するようにしなければならぬ。
雲がかかっていても太陽が存在しないと思って失望してはならぬ。
外の雲を通して内の太陽を見なければならぬ。
心の力で相手をいっそう悪くしてはならぬ。
常に疑いや悲しみや暗黒を自分の心から放送してはならぬ。
諸君よ、歓びと愛と太陽の光線とを人生に撒いて歩け。
諸君が心で喜びを放送すれば、その念は消えるものではないのである。
念(おもい)は種だ。
やがて諸君が撒いた喜びの念が、幾万粒の歓びの果実となって枝もたわわにこの世界に色づくことであろう。
その日のために、その日を待ちつつ私はここに諸君にこの善き生き方を語るのである。
*『生命の實相』 第7巻 生活篇 谷口雅春 著 日本教文社(絶版)より